私立学校の学童集団疎開

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 さきに述べたように港区地域内の私立学校の初等科においても、公立学校同様、各校も疎開を行った。各校の記念誌より当時の様子を窺(うかが)い知ることができる。
 
■啓明学園
 昭和一九年八月 学童集団疎開の国策に従い初等学校三年以上の児童二二名が当時の北多摩郡拝島村の現在地に移る。
 一一月、集団疎開の小学生は多摩御陵近くへ遠足、空襲警報解除後電車ストップのため、西八王子駅まで甲州街道を歩き、西八王子駅より電車に乗って帰寮した。五月、大空襲で赤坂台町の校舎は焼失する。八月一五日戦い終る。八月の終りに集団疎開児童を家に帰す。(沿革誌の一部抜粋)
 
■東洋永和女学院(東洋英和女学院)
  疎開児童は昭和一九年八月一九日に上野駅を出発した。本校の疎開地は、栃木県下都賀郡寺尾村出流山満願寺と決定した。初等学校三年生以上六年生までで、八三名がこれに参加することとなった。付添職員は外崎主事ほか、受持教員四名、看護婦一名、寮母四名であった。満願寺には修行僧のための宿坊と講堂があったのでこれを借用して疎開学園を開設した。借用したのは畳一一二枚分で借用量は一畳一円五〇銭であったから、一か月一六八円であり、食費はひとり一か月一〇円の予算であった。疎開学園開設に当たって、増改築を行い便所を新設し、浴室や押入などの改装を実施したので、三六九八円五銭の一時支出を要した(宿坊が一か所当時のまま残っている)。二〇年四月二〇日初等学校二年生九名が加わった。僅か八歳の少女たちである。
  日曜日に授業を行ったので、月曜学校が開かれ、聖書の話や讃美歌も教えられていた。二〇年七月には児童が六三名にまで減少した。敗戦後も疎開は継続され、地元の開墾事業に協力した。一〇月一六日に疎開解散通知を父兄に発送し、一〇月二二日に集団疎開終了式を行い、二五日に出流山を出発して東京へ帰った。敗戦から二か月余を経ていた。(『東洋英和女学院百年史』)
 
■聖心女子学院
  昭和一九年八月二〇日午前九時、学校の講堂で疎開式をあげた。品川駅より上野に至り疎開列車に乗り込んだ。絽の上下のモンペにターバンというマザー吉川マザー福川に引率された生徒七八名、雨の黒磯駅に着いたのは午後五時を回っていた。二台の木炭バスに分乗して湯本へ向かった。栃木県那須郡那須村湯本で那須高原の中腹で別荘を五軒借用した。ここに聖心女子学院那須疎開学園が誕生した。
  二〇年三月五日卒業生一五名帰京、四月から新入生も加わった。同年一〇月二五日、学園で解散式を行いバス二台に分乗し黒磯にゆき乗車したが、バスが遅れ一部は無蓋貨車に乗せてもらい吹き飛ばされそうに
なって帰京した。一年三ヶ月幾多の困難があったが大過なく終了した。(『聖心女子学院創立五十年史』)
 
■森村学園[図15]
 学童疎開の記録
  空襲の激しくなった昭和一九年八月、初等科(当時は森村初等学校)の児童たちが、五人の先生に引率されて疎開地(栃木県安蘇郡赤見村出流原、現在の佐野市)にむけて出発していった。このときから終戦の年(二〇年)の一〇月まで一年二か月のあいだ、この子供たちは親元を離れ、先生と幼い子供だけの疎開生活を送ったのである。(『森村学園六十年史』)

[図15] 出流原神社前(『森村学園六十年史』)