疎開受け入れの計画[注釈5]

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 昭和19年9月28日の『下野新聞』は、同年9月1日現在の栃木県内における疎開学童数1万5000人余、附添い職員・寮母・作業員1500人余と報じている。鬼怒川・川治温泉のある藤原町の受け入れ態勢について、『藤原町史』によると、藤原町においては、町当局と宿舎にあてられた旅館が協力して集団疎開学童の受け入れにあたった。
 藤原町議会議事録によると 学童の集団疎開が実施された昭和19年には、8月の議会で予算追加の案件が上程され、その中で戦時特別費として7900円余が追加されている。このうち6000円は、「学童疎開受入レニ伴フ食糧増産ノタメ三町歩開墾奨励其ノ他諸費」にあてようとするものであった。また昭和20年5月の議会でも予算追加について審議されているが、この中では戦時特別費として県が1500円を補助し、更に1万483円を町費から支出して合計金額を1万2000円とし、これをもって集団疎開学童用机、腰掛を整備することとしている。しかしながら極度に物資が不足している戦時中のことであったから、疎開学童たちは深刻な食糧不足と生活の不便に耐えなければならなかった。
 飯倉(いいぐら)国民学校の3年女子が疎開した足利郡御厨村覚本寺には、「学童集団疎開契約書(建物賃貸借契約書)」が保存されている。
 また、覚本寺檀徒(だんと)の方へ至急廻覧として、
 
 おいそがしいところ急で恐入りますが、本一二日夕八時半本寺へお集まりねがいます。集団疎開児童受けいれにつき種々御協議煩はしたいのです。情勢緊迫のため来る一四日急拠東京から疎開してくることに本日通報がまゐった次第です。 昭和十九年八月十一日 覚本寺執事
 
 の印刷物がある。
 
 昭和一九年 学童集団疎開契約書(永久保存)  覚本寺
   建物賃貸借契約書
 東京都長官代理麻布区長(甲)ト栃木県足利郡御厨町大字島田八百七拾一番地覚本寺住職三国浄春(乙)トノ間ニ乙所有ニ係ル左記建物ヲ麻布区学童集団疎開宿舎トシテノ使用ニ関シ左ノ通契約ヲ締結ス
          記
 第一条 乙ハ其ノ管理ニ係ル左ノ建物ノ一部(別紙図面ニ示ス)ヲ甲ニ使用セシムルモノトス
栃木県足利郡御厨町大字島田八百七拾一番地所在
     木造銅葺(ブキ)平屋建本堂一棟及其付属建物
 第二条 前条ノ使用期間ハ昭和一九年八月一七日ヨリ昭和二十年三月三十一日迄トス但シ甲ハ期間満了一ヶ月前ニ契約解除ノ申出ヲナサザルトキハ本事業ノ国家的性質ニ鑑(カンガ)ミ本契約ハ更ニ一ヶ年効力ヲ生スルモノトス
 第四条 建物使用料ハ一ヶ月金壱百五拾円トシ毎月末日迄ニ甲ヨリ乙ニ支払ウモノトス 但シ一ヶ月ニ満タサルトキハ使用料ハ日割計算ニ依ルモノトス
 第六条 第二条ノ期間中電灯料、水道料、並電話維持料ハ乙ノ負担トシ畳表新規取替又ハ裏返シ補修ヲ為ス場合ニ於ケル経費ハ甲ノ負担トス
        ―中略―(第八条迄有リ)
   右契約書弐通ヲ作成シ甲乙各壱通ヲ保管スルモノトス
 昭和一九年  月  日
         栃木県足利郡御厨町大字島田八七一
   賃貸人   覚本寺住職   三国浄春   (印)
         東京都長官西尾寿造代理
   賃借人   東京都書記官 麻布区長 赤羽 幾(印)
 
 疎開先での経費のまかないについては、父兄負担額のほかに国庫補助費が当てられた。契約については区長が責任者となり現地業者と契約を結び、学寮長が実際上の監督交渉権を持つという形がとられていた。
 
   賄請負契約書
   芝区長ヲ甲トシ  ヲ乙トシ契約スル条項左ノ如シ
 第一条 芝区学童集団疎開宿舎ニ於ケル児童及ビ附添職員ノ食事賄ハ乙ノ請負ニ依ルモノトス
 第二条 契約期間ハ建物賃貸借契約第二条ニ同ジトス但シ甲ニ於テ必要ナル場合ハ期間中契約ヲ解除スルコトヲ得
 第三条 食事賄費ハ児童及ビ附添職傭員一人ニ付一ヶ月二十五円トス但シ給食期間一ヶ月ニ満タザルトキハ日割計算トス
     食事賄費ハ食料輸送費及ビ炊事用薪炭費ヲ含ムモノトス
 第四条 前条食事賄費ノ支払ハ乙ノ請求ニ依リ毎月末日迄ニ行フモノトス
 第五条 甲ハ学寮長ヲシテ乙ノ食事賄ニ付キ児童ノ保健衛生ノ見地ヨリ左ノ事項ニ関シ必要ナル申入若ハ監督ヲ為シ得ルモノトス
  一 作業員ノ適否       二 主食、副食物ノ分量ノ適正
  三 食事献立表ノ提出     四 在庫食糧品ノ検査
 第六条 乙ハ学童用食糧ノ配給アリタル都度其ノ送付伝票ヲ学寮長ニ提示スルモノトス
 第七条 乙ハ塩谷地方事務所長  町長及ビ各学寮長其ノ他関係者ト共ニ学寮運営懇談会ヲ組織シ宿舎ニ於ケル生活問題改善(賄ヲ含ム)ニ関シ随時協議スルモノトス
  附 則
 第八条 乙ハ在宿ノ学童及ビ附添職傭員一人ニ付一ヶ月二円宛ノ割合ヲ以テ算出シタル金額ヲ食糧其ノ他物資ノ輸送費トシテ………後略
 (東京都立教育研究所編 『戦後教育史稿』)
 
 覚本寺では、檀徒の方々全員で、分担して準備を早急に計画し、8月17日の児童到着までに受け入れ作業を行った模様である。[図16]の表は、当時の印刷物である。
 疎開した翌日宿舎の住職が児童の家庭一軒一軒[図17]のような葉書を出している(覚本寺所蔵)。
 [図18]は、地元の受け入れ校北郷国民学校より児童の家庭へ出された通信文である。

[図16] 覚本寺の児童受け入れ作業に関する書面


[図17] 覚本寺が児童の家庭へ送付したハガキ(覚本寺所蔵)


[図18] 受け入れ先より児童の家庭へ出された通信文(覚本寺所蔵)

関連資料:【文書】小学校教育 学童疎開への地域の協力