大いなる決意と武装のもとに、悲壮とも言える職員のあとに案外落着きと好奇心に似た眼を見せて続く三年以上の疎開学童、それを涙をためて見送る父母、ラッパ鼓隊を先頭に新橋乗車、鬼怒川へ、町民をあげての歓迎の中に堂々と進軍した四百の健児、出発はこのような感じであった。(南桜国民学校港区史編集資料)
[図19] 桜田校庭出発式
[図20] 新橋駅へ行進
[図21] 東武電車、鬼怒川塩原駅
[図22] 鬼怒川へついて宿舎までの途
と書かれている。
新橋駅より浅草、東武線で鬼怒川へ、車窓からみる風景の変化に、遠足にきたような気持で、楽しそうに友達と語り合う児童、親もとを離れてこれからは、先生や寮母、作業員を家族とする集団生活をどのようにして過すのかの不安は、心の中に秘められていた。南桜国民学校の姿である。
南山国民学校の場合については、同校に保存された資料、当時の学寮長(木村清)の手記などから、出発当時
の様子を知ることができる。その大要は次のとおりである。
集団疎開学童の輸送
七月二二日文部次官通牒の「帝都学童疎開実施細目」には、児童の輸送について次のような指示がある。
一、必要に応じ臨時列車の特発、車両の指定其の他特別の措置を考慮する。
二、見回り物品の携行は寝具、着がえその他当座の必需品に止め他は取り纏(まと)め追送の方法によること。
三、身廻物品は車内持込を除き児童一人当り二〇キログラム以内一個「布団を含む」程度とすること。
四、炊事道具、校具等は必要最小限度の物を輸送すること。
こうして東京都の区内学童は、昭和19年(1944)8月中旬から9月にかけて、準備の整ったものから漸次輸送が実施された。麻布区立南山国民学校の場合の輸送計画を示せば次のようである。
昭和一九年八月一八日
第一班一二六名 〔高庵寺、長林寺〕
田町駅 七時三二分
上野発 八時四〇分〔513列車宇都宮行〕
小山着 一〇時三二分両毛線乗換
小山発 一〇時五五分〔630列車〕
足利着 一一時五一分
引率者 外山、山口、相川、吉田
第二班一六二名 〔大聖院、東光寺、長法寺〕
田町駅 一〇時四四分〔一〇六〇電車C〕
上野発 一一時五〇分〔131列車仙台行〕
小山着 一三時四〇分乗換両毛線へ
小山発 一四時二七分〔634列車〕
佐野着 一五時一一分
引率者 田島、大屋、赤城、星田
第三班二〇〇名〔丹波屋、興福寺〕
田町駅 一二時五一分〔1268電車B〕
上野発 一三時四〇分〔133列車福島行〕
小山着 一五時三四分乗換両毛線へ
小山発 一六時〇四分〔636列車〕
佐野着 一六時四八分
引率者 木村、佐藤、田中、岩沢
班の編成は宿舎別にし、遠いものから出発させている。それぞれ目印の小旗を用意し、その日の夕食まで持参させている。出発前疎開先の佐野市長、安蘇地方事所、および毛野村長に宛て「ニモツ一六ヒゴゴツク、一七ヒウンパンタノム、シユクシャガクコウレンラクタノム」の電報を打っておいた。荷物を積んだ貨車5台が8月15日に疎開先の駅に着くことになっていたので、この運搬を頼む電文である。その外直通のトラックも1台頼んでいる。
佐野駅に着いた第3班(丹波屋学寮)の様子が寮日誌に記入されている。
昭和十九年八月十八日 晴
十六時四四分佐野駅につく。市長、助役、地方事務所長、同総務課長市内各国民学校長、各種婦人団体、其他国民学校児童に至る駅頭広場を埋むる佐野市民の歓迎の中に到着。市長及び学校長代表の歓迎の辞、南山校長の答辞等ありて式を終り丹波屋につく。町内婦人会等の迎をうけ階上に座す、用意のジャガイモと赤飯をまづ戴きて、旅装をとく。
九二畳の広間も荷物と児童とにて足のふみ場もなし、とも角本日は明朝の食事、洗面の用意に留めて寝につかす。就寝せしめたるは午後八時過ぎなり。校長、星田、岩沢三氏及び寮職員の佐藤、森川、石瀬、内山瀬戸五氏なり。とも角「集団疎開もここまで来たる」の感深し。
集団疎開はここに終りたるに非ずして実にこゝに第一歩をふみ出せるなり。
諸氏と十一時過ぐるまで種々準備期のことゝ今後の事等を語る。
子供達も始めて宿舎に泊りたる故か寝つかれざる模様にて十一時すぐるまで話声絶へず。
児童百名、職員三名、寮母二名、作業員四名
病気なし
神応(しんのう)国民学校の場合は、港区史編纂資料、昭和34年調査による。
出発時、八月はじめ集団疎開地が川治に決定すると直ちに諸準備に着手し、その中でも有志父兄の奉仕によって約一週間にわたる学校用・児童用大小約八百個に近い荷造り、講堂をうめつくしたその荷物を荷車・リヤカーで恵比寿駅までの運搬は全校をあげての大事業で、その活躍ぶりには目頭があつくなった。尚、当日(昭和一九年八月二六日)壮行式のあと校長をはじめ関係職員引率の下(もと)に、又、奉仕会長・西尾理事等につきそわれ、天現寺より都電に乗車、国のためとは言い乍(なが)ら、いたいけな児童のリュック一つ背にした痛々しい姿、行列を見送るもの送られるもの共々に泣きの涙、東武線浅草駅より新藤原駅まで、更にトラックで川治にむかう。児童達は、親の膝もとをはなれて淋しいうちに一夜をむかえた。
『調布市教育史』によると、調布、神代など三多摩地方の各町村は当時の状況では学童疎開の受入れ先であった。
地元としての当時の受入れ記録は余り残されていない。赤坂区青南国民学校の場合児童は神代村に集団疎開をすることになった。ただ『滝坂国民学校沿革誌』に次のような断片的な記録が載せられている。
一九年 八月一〇日 疎開児童受入懇談会
八月二五日 疎開児童出迎え、青南国民学校金竜寺へ
九月 六日 疎開児童歓迎会
昭和10年代の青南国民学校は毎年平均1600名以上の児童をかかえる大規模校で、19年3月末でも1436名(27学級)の児童がいたが、疎開のため、20年3月には260名(8学級)になっている。『港区史』による別の資料では同校の疎開状況について、次のような統計もあり、縁故疎開、集団疎開により空いた学校の校舎は、軍その他の施設に転用されていた。
そして、同校の『創立七十周年記念誌』に、学童疎開について、
集団疎開児童数 三八七
附添職員 四七
縁故疎開児童数 一〇八〇
残留児童数 三〇
と記されている。
戦争が、いっそう激しさを加えていった昭和19年8月15日から、集団疎開が始まる。学習は地元学校に依存せず寮ごとに行われ朝から晩まで文字どおり寝食を共にする生活が引揚げの21年3月まで続いたと記している。
北多摩郡神代村(京王電車金子駅下車)
1 入間寮(府立女子商業校舎) 三年男女、五年男子
2 家庭寮(神田家政寮) 五年男子
3 昌翁寺 六年男子
4 神代寮(府立第一高女寮) 四・六年女子
5 明照院 四年男子、五年女子
6 金竜寺 四・六年男子
疎開学童を引卒した旧職員の思い出話として次のような記事もある。
子ども達を寝かせたあと職員会(六か所の職員が一か所に集って)を開き次の日の相談をして寮に帰ってみると子どもが一人もいない。近所を探しても見当らない。四年生の子ども達は、甲州街道をみんなそろって東京に向かって歩いて行き、途中親切な馬車をひいた人に乗せてもらって帰った。(『調布市教育史』より)
前記のような各校の記録からもわかるように、出発時、到着後の対応には、教職員の並々ならぬ苦労が窺われる。
芝浦国民学校の場合をみると同校には、当時の公文書、報告文書等、貴重な資料が保存されている。その中の、集団疎開してまもなく出された調査報告をみると、当時の状況がわかる。次に抜粋してみた。
昭和一九年九月八日 集団疎開東京都芝浦国民学校
一 職傭員名 教頭 富樫銀作 訓導 三名 養護訓導 一名
保母 六名内二名ハ現地 作業員 六名(現地)
一 児童数 一六九名(但し、内二名病気ノ為出発延期未ダ入園セズ)
一 宿舎 栃木県塩谷郡塩原町下塩原四五八 清琴楼
(旅館主、君島信逸) 電話 塩原 二三番、一二三番
一(1) 食糧関係
イ 現地配給、本校ハ九月一日ヨリ給食ヲ始メタルモノニシテ、東京都ヨリ持参ノ前渡食糧ヲ給シツゝアリ来ル十一日ヨリ本県現地配給ニ転換ノタメ未ダ不明ナリ
ロ 副食物ノ状況 ◎本日マデノ所ヲ見ルニ三食中二食ハ味噌汁一食ハ煮物ナリ。味噌汁 茄子(ナス)、馬鈴薯(ショ)、菜等少量宛 煮物 鯉一回他ハ南瓜(カボチャ)、馬鈴薯等少量宛、香物 菜、胡瓜(キュウリ)、茄子等
右ノ状況ニシテ誠ニ単調不足勝ナリ、然レドモ現地ノ食糧事情ヨリ見レバ当然已ムヲ得ザルモノト認ムレドモ、東京都内配給分ヨリ何トカシテ転換配給ノ途ヲ講ゼラレムコトヲ望ム(略)
ハ 間食用青果物、菓子類配給ノ実施ヲ速カニ取計ハレタシ(略)
(2) 衛生状況
イ 一般ニ現在マデノ所良好ナリ、極ク軽微ナル発熱頭痛、腹痛、下痢患者十数名発生シタルモ殆(ホト)ンド就床スルニ及バザル程度ノモノナリ、就床シタル者モ僅カニ数時間乃至一日程度ニテ快癒(ユ)シ居レリ、
ロ 既応症アリタル罹(リ)病者
三年男児 喘息(ゼンソク)(入園前父兄ヨリ何等ノ申出無シ)
入寮第二夜ヨリ発病 厚生省療養所ノ診断ヲ受ケ確定売薬ヲ以テ加療
四年女児 盲腸炎(入園前父兄ヨリ何等ノ申出無シ)
入寮第二夜ヨリ発熱腹痛ヲ訴フ最初ハ便秘ノ為ナランカト思ヒタルモ種々問ヒタダシタル所本人ノ言ニヨレバ一年前頃ヨリ数回同様ノコトアリ、附近ノ養育院ノ女医ノ診察ヲ受ケ盲腸炎ノ徴アリ(略)
三年男児 百日咳ノ予後(申出アリタル者)(略)
ハ 当地ニ於ケル医療施設不完備薬品不足ナルハ真ニ憂慮ニ堪(タ)ヘズ 殊ニ集団疎開児童ハ多数ニシテ家庭ヲ離レ気候風土ヲ異ニセル現地ニ於ケル集団生活ナレバ一大考慮ヲ要ス 若シ万一ノコトアリタル場合国家父兄ニ対シ真ニ申訳ナキ次第ナリ、一日モ速タニ都或ハ区ニ於テ医師ノ常駐薬品ノ充足ヲ取計ハレタシ
(3) 精神状況 不足勝ナル生活 父兄ノ許ヲ遠ク離レテノ未経験ナル集団生活ナレバ懐郷的精神状態ニ陥り易キハ当然ナリ現在マデ毎日夜二三名帰京希望ヲ訴フルモノアリタルモ、職員保母児童相互ノ慰藉(イシャ)ニヨリ間モナク喜戯スルニ至レル状況ニシテ一般ニ元気且朗カナリ、旅館主及町ノ人々モ感心シ居リ
(4) 其ノ他
イ 職員(訓導一名増員ヲ希望スルコト切ナリ)
ロ 雇傭員(疲労ノ為就床スル、旅館主或ハ妻女等ヲ加へ作業担当)
ハ 疎開各校間ノ連絡統制ヲ一段ト強化スルノ要アリ
ニ 宿舎ニ於ケル使用畳数ニ余猶(ユウ)ヲ認メラレタシ
ホ 本校宿舎清琴楼ノ館主ハ現在当町役場疎開係主任トシテ在任、以前ハ小学校教員ノ経験アリ第一人国民学校訓導在任中ニシテ一家ヲ挙ゲテ本事業ニハ満腹ノ理解アリ深甚ナル協カヲ得ツゝアリ、(略)
疎開後1週間の調査報告であるが当時の並々ならぬ苦労の跡がわかる。
関連資料:【学校教育関連施設】
関連資料:【くらしと教育編】第10章第1節 (2)集団疎開先でのくらし