栃木県鬼怒川温泉の集団疎開地の記録
八月二九日 お母さんお元気でいらっしゃいますか。御無沙汰を致しましてすみませんでした。つうこくせんありがたうございました。
今日から出した手紙はとっておいて下さい。ではお願いします。
今日神明の全校がこんど行く学校へ行きました。そこから帰ってくるとおいしいおいしいとうもろこしをいただきました。お母さんもおたべになりましたか。
八月三〇日 今日かうづ島からおくってきましたさつま芋をいただきました。とてもあまいおいしいお芋でした。お母さんこんなおいしいお芋いただきましたか。今日はあまりかわった事がありませんからここまでに致します。
八月三一日 おひるごはんをいただいてから鬼怒川水道まで行きました。山道を花をみつけるのをたのしみにしながら行きました。そして水の大切なことがつくづく大へんなことだと思いました。家でもどうぞ水を大切にして下さい。
九月一日 今日は大震災のあった日ですね また二百十日ですね。私は大風が吹かないかと心配しておりました。こちらは何もありませんでした。今日又お山へいきました。そして水引草をたくさんとってきました。そちらはお花かへますか。こちらはたくさんあります。おくりたいんですけれどおくれません。
九月六日 「お母さん、心の底の底までこもっているお手紙ありがとうございました。けさおきると、いつものなわとび体操が耳に入ったのでいまごろはお父さん会社へいくまでかならず家へ遊びにくる勇ちゃんと遊んでいるようすが思はれてなりません。それで書き始めました。このふうとうもお母さんのにぎってくれたと思うとお母さんの手だと思ってだきしめました。ねられない時にはこの手紙を子守歌と思って読みすやすやとねてお父さんお母さんの夢を見ようと思います。ですから箱の底にぴいんとしまってあります。そしてまくらもとへ置いて休みます。お手紙によりますと小さい時のお母さんににているというので、私は一番それをうれしく思いました。何よりの私のうれしいことは、それだけです。これほどうれしかったのははじめてです。(略)
当事の食生活の様子について、数校の記録より調べてみると、疎開直後、冬季を迎え、又、戦況激しくなるにつけ次第に食糧が乏しくなり、毎日の献立、食事の様子が厳しくなることが判然としてくる。
[図23]は芝浦国民学校の9月5日(火)より、9月11日(月)までの1週間分の献立表であるが、前述の調査報告と一致するように、毎日、2回味噌汁と1回の煮物、ほとんど野菜の漬け物がつく程度、一汁一菜のことばどおりの生活であった。おやつも1度とうもろこしが出たのみであった。温泉地の旅館等を学寮とし、大人数を収容した所では、食糧調達に大変苦心をしたようである。また農村の寺院等小人数の学寮では、少々豊かであった面をみることができる。
[図23] 芝浦国民学校の疎開地での献立表
あの疎開生活で私達が一番辛くて印象に残っているのはやはり食糧問題です。食事はいつも寮母さんのついでくれる小型で量った盛り切り一杯でおかずは朝は味噌汁、夜も小さなカボチャが二切れ位、おやつは細長いサツマイモが一本等で今日の時代では想像できない食糧事情でした。
町にもお菓子など売っていませんでしたし、空腹との戦いは三年生の女の子がこれを補う為に便所の中に隠れて唐辛しを食べたり、五年生のきかん坊の某君はお腹がすくからといってウンコに行きたくなっても、それを何日間かがまんしたりさえする結果を招いたこともありました。(昭和20年卒業生 『芝浦小学校創立二五周年記念誌』)
起床と共に点呼、朝食、学習、昼食、運動……と軍隊式集団生活が始まった。一週間過ぎ二週間すぎる頃、十歳の僕達の心には遠く東京のおかあさんの顔が、弟妹の事が想い出され、云うに云われぬ淋しさがこみあげ、手すりにもたれ、東京の空を見つめる眼には、涙がいっぱいだった。食糧事情が悪く、ニュームの食器によそわれるわずかな量に「どうか今日は多くよそわれますように」と祈りながら食堂に行くのが常だった。見かねたホテルの主人が米二俵都合してくれ、腹いっぱい食べさせてもらった事は皆憶(おぼ)えていることだろう。
栗拾いは都会育ちの僕達には珍らしく又、楽しかった。二・三人で栗ひろいをしている所へ野兎が出て来た時はびっくりした。皆に追いまわされ逃げる兎の姿を今でもはっきり憶えている。(『鞆絵(ともえ)小学校九五周年記念誌』)
疎開地は、都会と違い、山、川、温泉と山林におおわれた宿合、渓流沿いの自然に恵まれ、警報とは程遠い所であったが、その生活ぶりは前記のような、児童の心を感じさせるものであったのである[図24]。
十月三一日 今日目がさめるととてもよいお天気なのできのふの運動会をやる事になりました。元気よく手をふりきのふのおまんじゅう・さつまいも・とまとを手にもってにこにこしながら本校へいきました。一心館などの持って行くものを聞いていると福松がいちばんよさそうなのでなんだかわるいような気がしました。それにお弁当は後からおばさんが持ってきて下さるのでまるで家にいてお母さんが後からいろいろ持ってきて下さるのとかはりありませんくらいうれしいでした。もってきてくださった時もうそれはそれはうれしいでした。それからいろいろな体操など見ていていなかの三年生ぐらいの走るのがとても早いのにおどろきました。私達も御飯をたべたあとで走りました。一組八人ばかりで走り私は四番ぐらいでしたので何だかはづかしくてしやうがありませんでした。お母さんに知らせるのも何だかはづかしいのですがでも知らせますからあまり人に言はないで下さい。一日たのしくすごさせていただいて元気よく又帰ってきました。まるで東京にいた時の運動会みたいでした。
朝 さつまのごはんになっぱのおみそ汁でした。
昼 それはそれはおいしい「おこわ」に大根とごぼうのおにしめ。これは私の大好なおかずです。
夜 さつまのいもがゆにきんぴらごぼう・とまと、大根のしおづけでした。
(神明小学校『児童の心』)
[図24] 集団疎開学童食事ニ関スル調査
関連資料:【文書】小学校教育 集団疎開と父母の活動
関連資料:【文書】小学校教育 集団疎開児童の手記
関連資料:【文書】教職員 赤坂小学校学童集団疎開の状況
関連資料:【学校教育関連施設】
関連資料:【くらしと教育編】第6章第3節(2) 疎開児童の食の思い出
関連資料:【くらしと教育編】第10章第1節 (2)集団疎開先でのくらし