この場合、宿舎としての施設・設備は一応整えられている。児童の生活する部屋、洗面所、炊事場、便所、浴場等は直ちに使用出来る状態であったが、洗濯場、物干し場など細かい増設が必要であった。農村地帯には、旅館はごく僅かで、多く寺院の本堂を始め、その各室を借り、便所、風呂、炊事場の新増設を早急に行わなければならなかった。なお、児童の持ち物、ふとん等を置く場所、勉強する机は食事をする机兼用がほとんどであった。
戦後40年たった昭和60年に疎開地の実地調査に赴いたところ、当時、地元の国民学校高等科1年の担任の先生が教育長、当時の生徒の1人が町会議員となられていた。
昭和19年8月麻布国民学校の児童を迎える為、岩船山の山頂高勝寺の門前にある玉置屋・大黒屋の2軒、講中の者の宿泊所に、早急に便所を作ることになった。その材木の板を地元の高等科1年生が百段の石段をあがりおりして、汗びっしょりになり上半身裸になって持ちあげたものであった。しかし、井戸が山の上にひとつで、児童の生活に不便なので、すぐ下の高平寺へ再疎開をしたということである。
華蔵寺には、今も、その当時新しく境内に作った食堂、炊事場、風呂場がそのまま残っている。今は使用していないが、物置になっているということで、思い出を語る住職夫妻は、今も子供たちがそこにいるかのように温かい姿であった。
[図25] 材木をかついで高勝寺の石段を昇る地元高等国民学校生徒(岩舟町川上氏提供)
[図26] 特設した食堂・炊事場・風呂場
華蔵寺麻布国民学校
[図27] 学童疎開宿舎一覧表・昭和19年(『佐野市史』)
※新=新設 増=増設 修=修理
※各室一ツ宛電灯設備ノ要アリ 種徳院本表以外二階ノ一室使用ノコト
※其ノ他ノ横ニ各宿舎共飯台ヲ一〇~二七位有り
寺院だけでなく、赤坂地区では高等女学校の宿舎、国民学校の空き教室などを借り、宿舎に改造するなど、並々ならぬ苦労を重ねた記録をみることができる。
[図29]の光明寺・北郷学寮(東町国民学校)の図は同校昭和20年の卒業生が描いたものである。
便所のこと……子どもにとって、夜の便所とは両親の揃(そろ)っている家庭にいても恐い所である。光明寺の私達の部屋は、本堂と渡り廊下でつながった庫裡(くり)の二階の百畳も敷ける広間だった。便所に行くには、階段を降り、玄関から外へ出て、五〇メートルも離れた山門のほとりまで歩かねばならなかった。眠りから覚めて尿意を覚えてもじっと天井を見て我慢する。だれかが立ち上がると、そこかしこから子ども達が起き上がり、ぞろぞろと山門のそばまで行く。便所は一人しか入れないので、山門の外の田んぼに向かって用を足すと、まわりの闇が急に恐くなり、後も見ずに馳(か)け出してふとんにもぐり込む。しばらくして、本堂と庫裡の間に、一度に五六人用が足せる便所が村の人の協力もあって出来上った。然し窓から外を見ると墓場だった。(東町国民学校 昭和20年度卒 松村 茂の日記の一部より)
[図28] 光明寺
[図29] 光明寺北郷学寮略図
関連資料:【学校教育関連施設】