次に、南山国民学校の面会日の決定、注意事項について、残された資料、『佐野市史』等より見てみる。
都より麻布区への割当は十月分五百七拾枚(麻布区二千二百名ニ対シ)であった。
南山校の面会計画は省線の切符の割当が七一枚で、他は東武線利用となり、十月中に完了するように区より指定された。いま「保護者の面会要領並注意事項」という資料によると偶数日を選び、八日高庵寺学寮、十日長法寺学寮、十二日東光寺学寮、十四日大聖寺学寮、十六日長法寺学寮、十八日興福寺学寮、二〇日、二四日、二六日、二八日の三日は予定日に参加できなかった保護者のために備えられた。また、注意事項として次の項目が示された。
1 面会ハ全部日帰リトス
2 児童一人ニツキ面会者ハ一人トス
3 証明書ナキモノハ面会デキズ
4 飲食物ヲ携行シテ児童ニ供与セザルコト
5 疎開先ヨリ生活必要物資ヲ購入シテ持チ帰ラザルコト
6 面会ニ行カレヌ家庭ノ子供ニ対シテハソノ付近ノ者ニテ責任ヲモッテ我ガ子ト同様ニ面会慰問スルコト
7 服装ハ決シテ華美ニ流レザルコト(防空服装ヲヨシトス)
8 地方人ニ対シテハ常ニ態度ヲツツシミ苟(イヤシク)モ不快ノ念ヲ起サセヌコト
9 職傭員ニ対シテ心付ヲシナイコト
更に付記して
面会ハ飽ク迄冷静ニ子供ノ生活ノ実情、宿舎ノ様子等ヲ十分視察シ子供ニ対シテハ激励ノ言葉ヲ送リ苟モ子供ノ寮生活ニ対スル心構ヲ動揺サセルガ如キ事ナク明朗ニ元気ヨク終了スルコト
[図38] 面会日の様子 飯倉国民学校3年生(覚本寺)
[図38] 児童図画 飯倉国民学校3年生(覚本寺)
と、熱心に父兄の協力を呼びかけている。しかし実際には父兄の中にはこれを守らない者もいたらしい。特に第4項の飲食物の持参禁止はまもられなかった。
そのために面会日の終ったあとには必ず腹痛下痢などの病人がでた。
また、20年2月には、保護者に対して、南山校長より協力方の通知を出している。
面会について、学校より連絡ある迄は今後面会を行はざること。但し左の場合は学校と打合せの上連絡証明書を受けて行くこと。該証明書なき場合は各寮にて入寮を拒否し御帰京を願ふ様打合せ済み。
イ 病気其の他の理由にて各学寮長又は学校より家庭に連絡したる場合
ロ 寮全体の学童に関係ある連絡の必要を生じたる場合
ハ 家族の病気其の他家庭にて連絡の必要を生じたる場合
なお食物持参への注意については芝浦校の学寮だより(20年5月)掲載の「食物について」も次のように述べている。
集団生活殊に遠く父兄の膝下(ひざもと)を離れて来て居る児童達の集団生活にとって病気その中でも伝染病程心配なことはありません。とりわけこれから一日一日と暑くなって来る時節です。ご来察の節お持ちになる食物が途中くさって悪くなった様子が見えました時は絶対に児童に与へぬやうにして下さい。現下の状況では児童にとっては食物は実に関心が深いのです。父兄にお手紙を差上げましたが中々実行出来ずに学寮に於ては全く困りぬいて居ります。……
[図39] 疎開児童の日誌
覚本寺は当初飯倉(いいぐら)国民学校3年女子が疎開した場所であったが、40年たった現在でも、学童疎開契約書綴、児童作文集、学寮日誌(1~6班児童の記載)、学童生活記念図画集、おつとめせいてん(経文、児童用)などそのころの資料が大切に保存されていた。
覚本寺住職(尼僧)の回想のことばから、「面会日は最高にうれしそうだった。親も苦心しておいしいものを用意して来て、本堂で楽しくいただいた。食料は豊かでないのでおやつの用意もたいへんで、お供物のお菓子など、それはそれは小さく切ってみんなで食べたりしました」。
次の表は、覚本寺における面会日の運営の一端を伝えている。
昭和一九年一〇月二五日(水)
第一回 面会日行事表 戦時練成道場 覚本寺学園
午前四時 起床前日一八時三〇分就寝 用便洗面ヲ五時二〇分迄ニ
五時三〇分 朝食
六時三〇分 清掃作業
七時三〇分 室内整頓 終ラバ着替ヲナシ出迎ノ支度ヲナスコト
八時二〇分 整列・室内 表参道ヨリ案内スルコト
八時三〇分~一〇時二〇分 受付・自由面会(本堂内ニテ面会スル)
一〇時三〇分 祈願会(勤行)学童・面会人全員整列ノコト
一一時~一二時 状況報告・挨拶
午後一二時三〇分 中食 父兄学童会食
一三蒔三〇分~一六時三〇分 交歓 自由散歩 懇談
散歩区域 田沼 武邸―鎮守社―八坂神社―覚性院
一六時三〇分 夕食
一七時三〇分 祈念 感謝祈念ノノチ床ヲノベルコト常ノ如シ
一八時 就寝
学校・町役場・婦人会・部落ノ方々炊事ヲハジメミナ手伝イニ来ル
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