疎開地での教育[図40][図41][図42][図43]

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[図40] 地元の国民学校へ・飯倉国民学校児童作品


[図41] 班日記・飯倉国民学校3年


[図42] 登校風景・飯倉国民学校児童作品

勉強は、御厨(みくりや)国民学校まで田畑をぬつて、先生を先頭に毎日集団登校をした。
二月十日の空襲時、B29の大編隊八十機位数えていたが大変だということで、本堂に避難、布団をたくさんかけて敵機の過ぎるのを待つうちに、みんな出てきて本尊の前に正座して合唱し「心経」を声高く唱え続け、驚きまた感動した。(覚本寺住職三国浄盛の回想より)



[図43] 御田学寮だより(『御田100周年記念誌』)

 宿舎で付添国民学校の教師が、東京にいた時のように学年、学級別の授業を行った学校、地元の国民学校に編入、教育を受けたものとの2通りがある[注釈11]。次に南山国民学校の記録より、疎開地の学校へ編入した例を挙げてみたい。
 8月18日に疎開地に到着した児童は、19日1日間休養を兼ねて、今後の生活に必要な知識を吸収することになった。続いて20日は日曜であったが、それぞれ地元の学校に行って入学式や対面式をすませた。
 26日土曜の午後、地元の国民学校の関係校長等が佐野校に参集し、疎開学童の取り扱い方法について打ち合わせが行われた。その要点は「疎開児童教育措置法」のなかに示されているので、次にこれを列挙する。
 
 A 学校における教育措置
 (一) その校における集団疎開児童を当該学校の各学年に分散配当し、当該学校職員これが教育練成に当る。
 (二) 練成一切の方針は当該学校の方針により実施す。
 (三) 疎開学童の学籍簿は之を東京都に属せしめ、当該学校に於ては都の学籍簿作製に必要なる資料を提供す。
 (四) 各校における疎開児童に関する諸帳簿規定を左の通り定む。
   1 学籍簿 仮学籍簿を作製し(氏名の右上側に〔疎開児童〕のゴム印を捺(お)す)学籍簿作製の参考資料とす、後に学校に返還す。
   2 出席簿 当該学級の末尾を利用するか又は付加して日日の出欠を明らかにする 但し当該学校の統計には参入せず、尚(なお)之が統計処理は疎開側学校において処理す。
   3 訓育簿、考査簿、本県規定のものを利用し(氏名右上側に〔疎開児童〕のゴム印を捺す)成績其の他査定の資料とす。
      仮学籍簿及び考査簿 訓育簿は学期毎に一括して其の都度疎開側学校に示したる後当該学校に返還す。優良可の評価に関しては其学級で優に相当するものを優とす、良可も亦同じ、従って比率は考慮せず。
   4 必要に応じ学校より寮を通し、保護者宛(あて)教育通信をなす。
   5 通信簿 南山校のものを使用す。
 
 疎開側職員(兼務職員)に対する措置
 (一) 県指示により父兄の立場を主とし兼務職員の立場を副とす。但し全面的に当該学校長の指揮統督下に属す、只寮会計には一切関係せず。
 (二) 寮に特別の勤務ある以外は一般職員と同様当該学校所定の時刻までに出勤し適切なる教育勤務に当たるものとす。
    適切なる教育勤務とは、特例による学級担任 必要に応じ授業担任 学年事務への協力 其の他である。
 (三) 特に疎開児童関係学級に対し適時適当なる科目に就て直接指導に当たることあり。
 (四) 別に定むる形式により〔寮日誌〕毎朝学校長に提出す。
    寮日誌に記載する事項左の如し。
    1、寮生活状況 2、健康状況 3、勤務予定と結果 4、来訪者 5、希望
 (五) 出勤簿は当該学校の末尾に付属せしめ出勤直ちに捺印(なついん)す。
 
 寮生活指導措置
 (一) 寮生活に楽しみとうるほひを感得せしむることを第一義とし、特に訓導・寮母一体となりて克く愛護し常に慈母の愛を重ねることを本義とす。
 (二) 団体生活の本領を体得せしむる為、集団生活ならでは体験し得ぬ教育的練成をなす。
 (三) 特に児童の健康には細心の注意を払い、力めて病気の早期発見に力め速に所定の医師の指揮に従う。
 (四) 学校長及当該学校職員は適切なる方途により寮生活を援助す。
 (五) 寮における学習交換をなすことにより一は学習確率を高め一は慰安の因とす。
 (六) 児童の楽しみを予期させるプログラムをつくり、物資其の他を市・地元婦人会等と連絡してなす。
 
 以上の取り決めによってその後約1カ年が過ぎたのであるが、特別なトラブルは起こっていない。予想された疎開側校と受入側校の職員の主導権争いに対しては、明確に東京都が「東京都国民学校集団疎開教育実施要領」において示した基本方針によった。即ち職員の服務については
 
 (1) 受入県ノ指示ニ恪遵(カクジュン)シ地元国民学校ノ経営方針ニ従ヒ、服務上遺憾ナキヲ期スルコト。
 
となっている。次に予想されるのは疎開児童と地元児童との対立であったがこれもほとんど耳にしていない。8月22日の国民教育局長より関係地方長官への通牒(つうちょう)の「集団疎開児童ノ教育ニ関スル取扱要項」[注釈12]には、
 
 5 疎開児童ト地元学童トノ交友ニ留意シ相互ニ謙譲ト親和ヲ以テ共励切瑳セシムルコト
 
と指示されている。
 なお、前記東京都の集団疎開教育の基本方針には次の留意事項が挙げてある。決戦体制下における教育の重点を示したものとして指示されている。
 
 1 学童集団疎開ノ意義ヲ体シ士気ヲ昂(コウ)揚シ必勝ノ信念啓培ニ努力スルコト
 2 教科並ニ教科外施設ノ時間配当ハ地元国民学校ノ状況ヲ勘(カン)案シテ之ガ適正ヲ期スルコト
 3 勤労ヲ重視シ農耕・畜産・水産其ノ他環境ニ即応スル作業ヲ課スルコトニ依リ食料燃料ノ自給ニ努ムルト共ニ地元ノ食料増産燃料生産等ニ協力シ勤労奉仕ヲナスコト
 4 生活訓練ハ上学年下学年を包含スル少年団組織ヲ適宜活用シ特ニ地元ノ少年団トノ連繋(ケイ)ヲ密ニシ団体訓練ノ実施ニ努ムルコト
 5 前般ヲ通ジテ師弟同行、行学一体ノ練成ニ努ムルコト
 (南山国民学校資料)
 
 宿舎で、学年別、学級別に授業を行った例を挙げてみたい。当時疎開地で、生活を共にし、起床から就寝まで、文字どおり24時間の中での、教育であった。時間割はきちんと出来ていたが、冬の寒い季節、天気がよければ外へ出て日なたぼっこをしたり、川原におりて運動をしたりというように臨機応変にやっていた。特に、炭焼きの人や馬が通る道しかついていない山道を登ったり(鬼怒川温泉)して遠足を行った。自然観察や、四季折り折りの自然現象、数百匹のこうもりの冬ごもりの様子など興味深く勉強することも出来た(南桜国民学校)。
 
  授業時間割の例 (桜田国民学校)
 八時             学習準備、登校(同学寮、他学寮へいく)
 八時三〇分~九時一〇分    第一時限授業  休日は自由時間
 九時二〇分~一〇時      第二時限授業
 一〇時一〇分~一〇時五〇分  第三時限授業  休日は作業時間
 一一時~一一時四〇分     第四時限授業
 一一時五〇分         下校、食事用意(当番)
 一二時一五分~午後二時    昼食、後片附(当番)休憩、洗濯
 二時~三時          体錬
 三時~四時三〇分       自由時間(各部練習)
 
 疎開先の学校生活[図44][図45][図46][図47][図48][図49]については次のような回想もある(川治温泉)。

[図44] 一日の生活


[図45] 屋外での国語の勉強


[図46] おやつ


[図47] ひなたぼっこ

 私達は三月半ば頃、鞆絵から川治温泉に疎開することになりました。川治ホテルは日本式な建物でひときわ目立つ旅館でした。ここに二つの学校があり、一階は御田、二階三階は鞆絵でした。私達は七時にラッパの合図で起床し一日の日課が始まります。午前中は勉強、又雨の時は合唱したり、遊戯をして遊びました。夏は毎日の様に河原へ泳ぎに行きました。(鞆絵 昭和21年卒業生、同校の記念誌より)

[図48] 地元国民学校での集会・桜田小学校

 当時白金国民学校6年生だった橘逸夫の著書『地球の目撃者』の中には、学童疎開日誌(昭和19年8月21日の疎開第1日目から20年2月26日まで)の様子が書かれている。その一部を掲げる。
 
  九月一四日 木(薄曇)
  「起床!」徳田先生の声が部屋中になりわたった。(中略)
  目がさめて、見ればうれしや今日も又……皆で合唱し、今日は佐山先生の指揮だった。ねむけをさましてくれるのは、あの戸をあけると流れこむ、すっきりした風である。朝礼は、大広間で六年生男子全体で行った。
  そのあと、山本先生のまはりに皆で集って日記のことについてのお話があった。そのとき参考に、畑石君の日記を読んで下さった。昨日外出した時に魚釣りのをぢさんのことを僕は、「釣りをしてゐるをぢさんがゐたので見てゐた」ぐらいしか書かなかったのに、畑石君は釣ってゐるやうすをくはしく書き、あんなこともあったのに……と思ふ所があった。午前中の勉強は、算数は「テコ」、昨日のつづきをして、暗算の練習をした。地理は「支那」の「北支那の自然産物」と「北京・天津・青島」を勉強をした。理科は、「私たちの体」のお話があった。午後には、算数の試験があった。多分、全部出来たと思ふ。あとは入浴まで自由。

[図49] 疎開日記(『御田小学校100周年記念誌』)

  九月一五日 金(霧雨)
  朝食後は、いつもと同じやうに大広間のひとすみで勉強した。
  理科は「私たちの体」の脈や運動、あるいは、食事の時の食べ方などを教はり、算数は、「車と力」をおさらひした。三組も一しょだった。
  校舎の面積を出すときは、実にほねがおれて、頭がこんがらかってしょうがなかった。おやつにじゃがいもをいただき、学校へ行って体重をはかった。三二・五瓩の体重が三〇瓩になってしまった。
 
 各種行事を通して、地元国民学校と疎開学童の合同行事が行われた[図50][図51][図52]。
 秋季大運動会、明治節の祝賀式等である。各学寮で、各校ごとにいろいろな、定例的行事も、東京にいた時のように、計画に従い教育的効果を高める努力をしていた。桜田国民学校の記録による「月例行事」を掲げてみる。
 
  錬成行事(午後、体錬と自由時間を以て行う)
 一日 一五日、体重測定(看護婦、職員指導担当をする)
 八日  大詔奉戴日(詔書奉読式)行軍、神社参拝、講話
 一九日 防空強化日(退避訓練)
 二二日 少年団月例訓練、行軍、閲団、分列、営火
 二五日 班長訓練
 三〇日 月末統計 諸報告書類作成発送
  地元国民学校と運動会を一緒に行う。だるま運び 三男
  真剣な子等の顔の中にも運動を楽しんでゐる様子がみえて嬉しい

[図50] 明治節


[図51] 運動会


[図52] つなひき

関連資料:【文書】小学校教育 学籍簿に関する規程
関連資料:【文書】小学校教育 <参考>戦時下の国民学校年間行事
関連資料:【文書】教職員 集団疎開教育第三学寮の経営