学芸会[図53]

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 疎開学童の毎日は、きめられた日課のもとに起床から就寝まで、班別、学年別、学級別と、変化のある編成が行われていたが、疎開地での生活に馴れるに従い単調になるのは否めない。
 そこで、どの学寮でも、土曜日の夕食後等に大広間に集まり、小さい学芸会を開催している。学童は、自由時間等を使い巧みな仕草や発想豊かなだし物を考え演技することを喜び、他の班の人々の演技も楽しんだ。
 また、慰問団が来たり、紙芝居や映画、歌の指導等も行ってくれた。
 神明国民学校では、一心館に集ってやった「学芸会プログラム」が残っている。
 
 一 学寮長 挨拶         二 開会の辞 六男
 三 朗 読 四男         四 ウタ   三女
 五 ユーギ「ナイショ」一年    六 ゲキ「オ山ノカカシ」 二年
 七 話   五女         八 歌    五男
 九 良イ花悪イ花 三男女    一〇 ユーギ「カキネ」 四女
 一一 長イ話 六男       一二 合 唱  五男
 一三 ユーギ「村ノ細道」一年  一四 人マネ  二年
 など、26番までも組んで、各宿舎の人々が一堂に会し、教職員始め、地元の人たちも一緒に楽しいひとときを過した様子がうかがわれる。

[図53] 学芸会・南桜国民学校

 鞆絵疎開学童を慰問した慰問団の記録がある。
  リュックサックに舞台道具をつめ、アコーデオン等の楽器を背負い、持参米を袋につめて慰問団の出発したのは、昭和十九年も師走に入ってからであった。今の様に交通の便の無い戦時中の事、鬼怒川温
泉から約二里の山道を歩いて川治温泉に向った。鞆絵疎開学童の先生は私の恩師本図先生であった。宿舎の川治温泉ホテルでは我々の慰問団を心から喜んで迎えてくれた。鞆絵の生徒は勿論のことホテルの従業員も女中さんも先生も我々の慰問劇にとけ込んで其の笑い声は川治の山々にこだましたほどだった。娯楽の少かった当時此の慰問団は大成功に終った。(後略)
 
   ともえ疎開学童の歌   作詩 曲谷健一
               作曲 高橋 勲
 一、川治よいとこ お国のために ここはぼくらの疎開地だ
   山あり谷あり 空気は清いぞ
   がんばれがんばれ 鞆絵の友よ 行こうよがっちり腕組んで
 二、川治よいとこ 勝ちぬくために 朝からきこえる
   掛声だ 谷間にひびくぞ にこにこ笑顔だ
   がんばれがんばれ 鞆絵の友よ 行こうよがっちり肩組んで
              (曲谷健一の回想『鞆絵小学校百周年記念誌』より)