食糧不足の深刻化

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 割り当てに従い、受入市町村や現地旅館、寺院等とも短期間であったが、実地に十分打ち合せをしたにもかかわらず、温泉地のような消費地に一時に多数の学童にこられて、先ず困ったのは食糧不足であった。各校の沿革誌及び記念誌の思い出などより若干例を見てみよう。
 疎開直後に食糧及び生活上の問題で再疎開を行った学校の記録である。
 
■西桜国民学校[図54][図55]
 戦争は益々苛烈を極め、小学校児童を空襲より守るため、学校の集団疎開が開始された。本校でも三年生以上二一六名、職傭員一五名引率のもとに、長年住みなれた家をあとに、昭和一九年八月三一日栃木県塩谷郡大網温泉に疎開した。大網についた疎開団は、温泉地であるため、食料の入手困難、更に温泉でありながら、国道一つへだてた渓谷(けいこく)の下の風呂までいかねばならないなど、いろ/\の問題にぶつかった。この状況をみて心配した職員父母は、区長、及び現地関係者と度重なる交渉の上遂に農村地帯である同郡熟田村、矢板町、泉村に移転を決定、一〇月二二日に移転を完了した。
 熟田村 小野敏二郎宅     三男(一三)三女(一六)五女(一五)計四四名
 同   広林寺(住職中見祥範)三男(一)五男(二三)計二四名
 矢板町 泉竜寺(住職遠藤博繕)三女(一)三男(一)四男(二)六男(二九)計三三名
 泉村  鏡山寺(住職坂井達雄)三女(一)三男(三)四男(二七)五女(一)六女(三一)計六三名
 
 合計187名とある。尚この他職傭員は全部で23名となっている。
 
 港区地域の委嘱の二人の委員の一人として疎開候補地である塩原温泉地帯をことごとく調査しました。これにより、港区地域の学校割り当てを行った結果、わが西桜は、大網温泉に決りました。この宿舎の考朽と温泉が道路より著しく低く昇降に危険なことなど実際学童が入所してからその不適当なことがいくつか判明したので、温泉地帯に代わり、農村地帯へ再度の学童疎開を行なうことになりました。県当局の反対意向などありましたが児童保護者の熱心なる支援と疎開地の人々の同情により、数十日間にして希望の宿舎がきまり、児童職員の再移転が完了したのである

[図54] 大網温泉・西桜国民学校


[図55] 西桜国民学校の再疎開・泉村 鏡山寺

■麻布国民学校
 岩舟町、高勝寺境内にある茶屋大黒屋、玉置屋に分宿したが、水が1カ所で、井戸から手おけで汲むので大変であった。風呂や炊事の水不足の為、高勝寺の檀家(だんか)総代がみかねて、自分の家で児童を週に1度入浴させ、うどんなどをもてなした。1カ月くらいで、高平寺に再疎開をした。高平寺の当時の住職は戦犯の人々の懲戒師を務められた田島良順師であった。檀家の人の中には山を提供し薪を呉(く)れたり芋畑を貸してくれる人もあり、村の方々の協力はすばらしかった。
 終戦を迎えた昭和20年(1945)8月15日ごろより疎開地の食糧事情は悪化し、東京へ帰る日もきまらぬままに、再疎開をした学校も3校ある。
 
■桜川国民学校 (沿革誌)
 二〇年九月 食糧が極度に不足、六年女子再疎開(栃木県塩原温泉福渡戸磯屋旅館より、栃木県湯津上宝珠院へ)
 二〇年九月 六年男子再疎開栃木県東那須郡全乗院へ
 
■桜田国民学校 (九五周年記念誌)
 八月一五日終戦の混迷下で食糧不足は最悪の状態になり、児童二名と宮崎訓導の母堂が死亡するという事態を招いた。疎開集団は食糧を求めて、九月初旬に山を下り、塩谷郡西那須町に再疎開した。一〇月下旬、疎開学園を閉じて帰京した。時に児童数僅かに六四名、職員一五名。
 
■芝浦国民学校 (学校保存文書)
 栃木県塩谷郡塩原町与下塩原清琴楼内東京都芝浦国民学校塩原学寮
 右学寮ハ昭和二〇年九月三〇日ヲ以テ那須郡佐久山町字福原金剛寿院福原寮へ移転完了セルヲ以テ廃止致シ候間比段及御報告候也
 昭和二〇年一〇月五日
  栃木県那須郡佐久山町字福原福原寮芝浦国民学校長 大伴武敏
 栃木県知事殿
 
 8月15日以降9月へかけて食事の内容についてしらべてみると、食糧は乏しく、配給も終戦後は遅れがちで大変現地では困った様子である。
 
■神明国民学校
 鬼怒川温泉福松学寮の場合(八月一五日~二一日迄)
 朝食 大麦入りおかゆ 梅干し、青菜(七日間)
 昼食 大麦たうもろこし入お味噌のおぢや(五日間)
    馬鈴薯入飯、キウリ(一日)馬鈴薯(塩)(一日)
 夕食 大麦入味噌味おぢやすゐとん
 おやつ 大豆(四日間)梨一ヶ(二日間)たうもろこし(一日)
 
■筓(こうがい)国民学校
 足利市光明寺学寮の実施状況月報九月分の食糧事情
 主食 米三割、麦三割五分、馬鈴薯一割五分 小麦粉二割(一人当り四〇〇グラム)学童四〇名
 野菜 茄子一五貫五七〇匁、人参一貫九〇〇匁南瓜五〇貫八三〇匁午蒡二貫六〇〇匁 葱一五貫一〇〇匁
    青葉一四貫二一〇匁 胡瓜八貫五〇〇匁 馬鈴薯二貫六五〇匁 玉葱三〇〇匁 大根二貫九〇〇匁
    芋がら一貫六〇〇匁 つまみ菜五貫匁
 間食 紅茶 小麦粉ダンゴ イリ豆、梨 スルメ サツマイモ ジャガイモ 枝豆 *肉、魚類なし
 
■赤坂国民学校 学寮日誌(二〇年四月より一一月三日迄記録)
 八、二五、米二、七升 豆二、四升(主食は殆んど変らず)朝、キウリミソ汁 昼 キウリモミ 夕 オヒ
タシ胡瓜
 八、二六 朝 キウリミソ汁 昼 トロコブ汁 夕 野菜ノ煮付
 八、二七 朝 キウリミソ汁 昼 キウリ汁 夕 大豆煮付
 八、二九 朝 大根ミソ汁 昼 キウリモミ 夕 ヤキトリ、卵トジウマニ、カボチャ(学芸会の為献立豊富であった)
 
関連資料:【学校教育関連施設】
関連資料:【文書】教職員 赤坂小学校学童集団疎開の状況
関連資料:【くらしと教育編】第6章第3節(2) 疎開児童の食を支える