第2 宿舎 第3 養護、第4 輸送 第5 罹災児童の措置について詳細に配慮している事がわかる。
一 罹災児童ニ付テハ其ノ取扱ニ特ニ慎重ナル注意ヲ払ヒ調査漏援護不充分等遺算ナキヤウ期スルコト
二 罹災児童ノ調査ハ避難先区長之ニ当リ保護者ノ希望ニ依リ罹災学校ノ疎開先又ハ避難先学校ノ疎開先ノ何レニモ参加セシメ得ルコト
三 寝具、食器、身廻品、学用品等焼失シタル者ニ対シテハ区、又ハ学校ニ於テ之ヲ調達シ若シ調達不能ノトキハ予メ疎開先県ニ連絡シ地元ヨリ借入又ハ購入ノ方法ヲ講ジ苟(イヤシ)クモ之等携行品ノ調達不能ノ故ヲ以ラ集団疎開ニ参加シ得ザル者ナキヲ期スルコト
などが記され、生活費負担の免除の事にも触れている
初等科修了疎開学童の帰京に伴い、新3年生を昭和20年4月1日以降輸送を開始する運びとなった。荷物は30キロ程度に梱包して一人2個以内、初めと同じである。その後、新2年生、新入1年生まで、この集団疎開に加わったのである。
次に各校の2次・3次疎開の記録を抜粋してみると次のとおりである。
■南桜国民学校
[図58]参照。
[図58] 南桜国民学校 集団疎開児童数及び附添職員種類別数
■乃木国民学校(現在の檜町小学校)
昭和20年3月には、6年児童は卒業のため帰京したが同年4月下旬第2回の集団疎開として1年から6年までの希望者を連れていった。
■神応(しんのう)国民学校(沿革誌)
一九、八、二六 戦争の激化により、初等科三年以上の児童一九四名職員一三名、栃木県川治温泉に集団疎開する。
二〇、三、九 空襲により校舎全焼、残留児童は三光国民学校の一部において授業を続ける。
二〇、四、九 新入学児童その他二九名集団疎開入舎式
二〇、一〇、一一 終戦により集団疎開児童帰校
■南海国民学校
一九、八 敵ノ空襲必至ヲ憂慮シテ第一ニ縁故疎開ヲ勧奨シ次ニ第三学年以上ノ児童ニ限リ勧奨シテ栃木県川治温泉ニ疎開セシム
児童一八六名
二〇、三 第六学年児童五六名修了準備ノタメ疎開ヨリ引揚グ
二〇、三 次ノ如ク川治ニ疎開ス 二年一五名 三年五名 四年一名 五年四名 六年二名 計二七名 残留児童三〇名
二〇、四 就学児童七名、川治ニ疎開ス 合計 一四二名
■芝浦国民学校
疎開地より、毎月保護者宛に出された『塩原月報』昭和20年5月号には、新1年生を迎え、編成や指導の様子が明確に報告されている[図59]。
[図59] 『塩原月報』芝浦国民学校
関連資料:【くらしと教育編】第10章第1節 (4)空襲の恐怖、被害、再疎開