集団疎開より縁故疎開へ

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 19年8月より第1次疎開、6年生の帰京に伴い、4月より新3年生、引き続いて、2年生、新入生の1年まで、残留児童のほとんどは集団疎開に参加した。
 東京も次々と空襲で被害を受け、学校及び学区域で被災を受ける家庭も多く、焼失した家に住む事もできないので一家中で縁故疎開を行うため、連日のように迎えに来て集団疎開より縁故疎開への移動が多くなっていった。
 『桜川小学校百周年記念誌』には次のような文を見ることができる。
 
  郷愁(しゅう)は縁故疎開に‼
  切符がかりの私の忙しさとくやしさは何とも言えなかった。六百をおさめた大学園も五百となり、四百となっていった。ホームシック。予期していたものの、かく強烈であり、しつこいものとは思わなかった。
  子どもは塩原を離れんとして縁故疎開すべくあらゆる物を親に手紙をもって訴えた。子を離して泣いて泣いて泣きぬいた親達は、……かつてお祭り騒ぎをし、深い決意を固めたはずの親も子も……それに対し、子どもの気持ちを落着けるために、盛んに遠足を行い、また塩原の風景に接せしめた。〝一度でいいから家へ帰ってみたい。〟〝ちょっとでいいの、東京をみて来たいわ。〟〝家のお母さんが病気になった夢みちゃった。
心配だわ。〟やはりどの子も同じ心であった。いや、先生や寮母でさえそれは変りはなかった。帰京不能と知るや、家からの面会者を心待ちに待った。(後略)
 
 終戦を迎え、8月15日を境として、東京都の受け入れ調整のため、ひき続き疎開を続けることが決められ、疎開地よりの復帰の日が不確実になった。父兄及び保護者の中には、不安にかられて、縁故疎開と称して現地に引き取りにくる者が次第に増加していった。
 また、引き揚げて連れてきても、焼け出されて寝るところもないので、疎開地にいて欲しいと願う家庭もあった。
関連資料:【くらしと教育編】第10章第1節 (4)空襲の恐怖、被害、再疎開