病気・事故への対応

418 ~ 419 / 477ページ
 疎開地に於ける学童や職員の健康に関しては各種の通牒(つうちょう)が出され配慮されたが、無医村の所も多く、各学寮は病気やけが、事故に対して大変苦労をした。特に伝染性や、急性の疾患で死亡に至った事例もあった。特に、どの地域でも、集団生活につきものの、のみ、しらみ等の退治には苦労した。
 定期身体検査、BCG予防接種などについても、地元の協力を得て行った。各校の記念誌や、疎開調査の報告、『戦乱と港区』などから、関係資料を抜粋してみると次のようである。
 
■筓(こうがい)国民学校
  山の上のきれいな所だけに、他の寮で苦しめられた蚤(のみ)にも虱(しらみ)にも余り悩ませられなかったが、お腹をすかした子供達が山へ栗拾いに行って栗のいがで次々に瘭疽(ひょうそ)になられた時は、無医村だけに大弱りで、足利から松寿園の院長人見先生にきていただき、学寮の大部屋に一列に寝かせ、学帽を顔にのせて痛み止めの注射もしないまゝ、次々に切開して膿(うみ)を出して頂き、翌日からはにわか看護婦の慣れない手にめん棒を持ってリバノールガーゼのとりかえで冷汗をかいたこともあったっけ。
  ホームシックで元気のない子に「ハイ、これお薬」と言って砂糖を丁度粉薬のように包んで渡すと、それだけで本当に元気になってくれた子どもたち。
  〝のみ・しらみの行列〟 村長さんのおはからいで、村の青年団の人達が畳をあげて大掃除をして下さっても、まく薬がないため、かえって蚤が騷ぐだけで寝つかれず、昼の明るい時、寮母と共に針を持って畳の縁に沿って生みつけられた蚤の卵を串ざしにして駆除しようと骨折った事もあったけれど、何のきき目もないまま、教師も子ども達も睡眠不足になるばかりでした。それで子ども達は学校へ着いて授業が始まるともうすぐ机に伏せって寝てしまうという有様で受け持ちの先生は「疎開っ子はそっとしててやれ」といつもいたわってくださったものです。
 
■氷川国民学校
 病気、事故の発生件数 自由遊び時間にすもうで、うでの骨折一名、他は殆(ほとん)どなく、伝染性の病気もなかった。ただ疎開地が都下南多摩で東京都内へ行くのが容易である為、親を慕う子供で無断で帰京してしまうのが一・二名あった。駅員に話しておいて疎開児童の個人乗車をとめてもらったこともある。
 
■南桜国民学校
 健康・保健の状況 食糧事情が悪くなるにつれて、体位は当然悪くなっている。四月頃、丸々していた児童が終戦当時は小さくなった感じがするようにやせた。然し精神的には元気一杯であった。
  病気については、盲腸手術が割合にあったこと、風邪引が多かったのにはまいったが、先生も寮母も学童と共に高熱を出して休む者が多くなり、母親達に応援に来て貰い大事に至らなかった事もある。其の他は、伝染病集団発生といったこともなく終始出来たことを感謝している。尚病気については、衛生担当の先生、今市病院、鬼怒川の土地の医師の献身的な御協力の賜と思っている。左に報告の一部をのせる([図60]参照)。

[図60] 疎開児童の病気・南桜国民学校

■御田(みた)小学校
 思い出すのもつらいことであるが、小林英雄くんという六年生の班長をしていた子どもさんが、おやつの後始末のため、外へくずを捨てに出て、そのまま戻らなかった事件が起こりました。直ちにその夜から八方、手をつくして捜索(そうさく)に当たったが、ようとして発見されないままでした。もしや鬼怒川へでも落ちて沈んでいたらと思い、寒中でも雪でも毎朝、日課のように発見に努めましたが、ついに見つけることができなかった。三月増水時期となって、遠く離れた鬼怒川発電所から、もしや生きてどこかにと内心思っていたのに反して、小林くんの水死体があがったのでした。驚きました。ものが言えませんでした。
 洋服の胸には、小林英雄と墨こんあざやかに残っているではありませんか。
 三月になって卒業する友人達が帰京するので自分も東京へ帰りたかっただろうと想像して涙を禁じ得ませんでした。日光警察署長の推測では川治・鬼怒川間に発電所の水の取入口があるが、そこから発電所までの間にトンネル式でない所があって、そこに落ちたのだろうとのことでした。
 
関連資料:【学校教育関連施設】