『佐野市史』に、南山国民学校の学寮日誌が一部掲載されその中で地元の協力に対しての記録がみられる。木村学寮長の並々ならぬ交渉の努力の賜でもあろう。
九月三〇日
婦人会奉仕、今後一日おきに奉仕
市役所より下駄箱の材木を貰ふ。
産業課との交渉、お客様分は増配される様交渉、月末にまとめて、転出証明なりを出す。
銭湯との交渉 一人四銭として作業員、寮母を含めて一ヶ月壱円弐拾銭とす。毎日入湯可。髪洗は毎日数人を限りて水を節約する。
長法寺にて月見するとて、村民一同相寄りまんじゅうを作りて御馳走にあづかる。助役出席、村民一同への御礼 生徒へは不充分不自由が当然、それを不自由どころか村の子供も食べぬようなものを食することを得るは、偏(ひと)へに村民各位の御親切なれば、いつかこれに報ゆるの心を忘れるべからずと教ふ。
十二月六日
金吹町婦人部長ヨリ馬鈴薯約二〇貫、天明町婦人部長ヨリ馬鈴薯及さつま各一俵贈与。
厚生課 小林氏ヨリ
炬達(こたつ)又ハ火鉢用資料ニツキ、二渡瀬氏ト連絡交渉、学童宿舎ニ於ケル火災防止並ニ避難訓練ニ関スル通牒ヲ受ク、各寮ニ分配ノコト
■炭焼き
川治は元来薪炭の生産地でありながら、戦時中とて疎開児童に対する木炭の配給割当が少ない上に、昭和一九~二〇年の冬は雪が多く、朝晩の寒気殊にきびしく、只暖を取るのに入浴のみに依存することもかなわず、二百名に近い児童をあずかる職員としても子をもつ親としても、之を見るに忍びず、遂に熟慮の末他校に率先して炭やきをする決意をかためた。
そこで地元営林署に窮状を訴え、原木の無償伐採の許可を認めていただいて、更に焼き上げ三七俵という大きな炭がまを児童と共に築き、一方では今思い出してもぞっとするような傾斜地で、連日職員は原木伐採 児童はその運搬を担当して、木炭増産の一翼をになった。その結果、大型堀こたつで充分暖をとることが出来たのは、実に地元各位の御援助の賜で、深く感謝にたえなかった。(神応(しんのう))
■華蔵寺学寮
郷に入れば郷に従うことを前提として、部落会に参加、疎開児の一日里子(日曜)農繁期の稲刈り手伝い、道路清掃、農民慰安の子供会の開催、部落の人とは特に緊密な連絡をとった。疎開児に対する同情は深いものがあったが、食糧には生産量の少ないために協力しかねたようだ。助役・地方事務所長の尽力には絶大なものがあった。(麻布)
前述の様に、疎開地の生活に馴れない学童の姿に同情し、物心両面からの協力の様子は、まちまちであるが、地元の国民学校の職員、児童は勿論の事、婦人会、青年団、檀家の人々、役場にしても町を挙げて親切にしてくれた。疎開地から応召して行く職員に対しても町を挙げて送ってくれた。
関連資料:【くらしと教育編】第6章第3節(2) 疎開児童の食を支える