善意のサツマイモ

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 山梨県身延町へ三光(さんこう)国民学校が集団疎開をしたのは昭和19年6月。戦時疎開学園としていち早く身延町の玉屋へいった。7月31日戦時疎開が中止されても身延玉屋学寮は継続され、終戦後も11月末まで疎開をしていた。
 この〝善意のサツマイモ〟の話は、昭和20年11月21日、敗戦の直後食料不足の件を知りサツマイモを自動車1台送荷してくれたときのことである。山本菊五郎氏と当時の三光国民学校生徒の間にかわされた思い出の作文である。(『読売新聞』昭和60年2月23日夕刊掲載資料)
 
 善意のサツマイモ
   戦争中の一九年六月から二〇年の終わりまで、山梨県身延町の旅館に学童疎開をしましたが、疎開中に児童の代表がかいた手紙を大切に保存していると、横浜市内の方から電話をいただきました。東京から来た子供たちがひもじい思いをしているのはかわいそうだと、地元の方がトラック一台分のサツマイモをくれたことがありました。が、そのお礼に出した手紙だそうです。近く同窓会の代表が拝見しに行く事になっています。「東京都板橋区前野町保険代理業 江沢恒夫さんからの電話です。身延町に疎開したのは、江沢さんら港区立三光小の一年から六年までの約一五〇人。サツマイモの贈りぬしは県教育委員をしていた山本菊五郎さん(故人)で手紙を保存していたのは山本さん二女、広瀬藤子さんでした。「父は三四年に五二歳で亡くなりましたが一三年前に実家を新築した際、遺品を整理中に手紙をみつけました。ワラ紙に鉛筆書きで十人のじどうからよせられ封筒には思いでの作文(永久記念)と父の筆跡でしたためられてありました。よほどうれしかったのでしょうね。(後略)
 
 疎開っ子の礼状を、贈り主が保存していたのである。その一部を次に掲げてみよう。
 
   南巨摩郡富川村   山本菊五郎様
   をぢさん江
 をぢさんお元気ですか僕も学童一同元気で勉強に運動に励んでおりますから御安心下さいませ。をぢさんたびたびさつまいもを有難うございました。毎日お三時にいただいております。みんなよろこんでいただいております。をぢさんほんとうに有難うございます。この下の絵でも皆んな大きなさつま芋をよろこんでたべている絵です。をぢさんほんとうに日本は負けて残念でたまりません。僕は、毎日お祖師様に新しい日本が立ちますようにとお祈りをしております。ではお体を大切に さようなら
    (作り歌)
 とてもおいしいさつまいも ぼく達うれしいさつまいも
 をぢさん作ったさつまいも ほやほやふけてるさつまいも
 僕達にこにこいただいて 僕達ほんとにしあわせだ。
 をぢさんをぢさん 有難う 有り難う
           僕が作った歌です。(五年男子)
 
 小父さん雨の降る日にトラックで甘藷を沢山もつてきて下さいまして有難うございました。甘藷みんなでおいしく感謝していただきました。ほかほかしていていつものよりも倍も倍もおいしかったように思われてなりませんでした。小父さんの親切な御心はたとへ東京帰りましても忘れません。私達はオヤツを毎日毎日楽しみにしてまっているのです。オヤツがあると皆大喜びです。みなれた身延の土地とも別れなくてはならなくなりました。本当につらいことですが、この一年間会わずにいた父母とあえると思ふとうれしくてうれしくて胸がおどります。小父さん本当に幸福ですね富川村とかいふ所にいるそうですね。私達は東京の焼野原へ帰っていくのです。考えるとなんだかなさけなくなります。小父さん今にきっとやります。(六年女子)
 
関連資料:【文書】小学校教育 芝区戦時疎開学園