6年生疎開よりの復帰

429 ~ 434 / 477ページ
 昭和20年(1945)3月、初等科6年生修了に当たり、疎開地より東京に復帰することになった。そこで、進学希望についての父兄会が東京で持たれ、疎開地の学校へ進学希望するものがあればということであったが、ほとんど、東京の父母のもとに帰り、進学するよう、内申書などの準備が整えられていった。
 6年生は荷作りを終え、駅まで積み出し、神社や学校及び役所などにお礼廻りをして壮行式などを行って、多数の見送りを受けた。特に下級生のまなざしは、痛いように感じたものであった。2月下旬から3月上旬にかけて復帰計画が示された。
 白金国民学校児童の日誌(橘逸夫著『地球の目撃者』)によると、
 
    二月二〇日(火)晴
  入浴をしてから、夕食の用意をしてゐるところに先生がはいってこられて、「帰京は、三月一日の午前十時、新藤原駅を出発します!」と知らせて下さった。いっせいに、皆で「わあ!」とくわん声をあげ喜び勇んで拍手をした。夕食もうれしくて、食事がとてもおいしかった。先生の部屋で、そのご注意や準備することなどのお話があり、はがきを五枚づつ配給になった。大広間に帰って早速、家へ、三月一日に帰京することを書きはじめた。
  予定どおり昭和二〇年三月一日、私たち疎開学童の六年生は中学校進学のため帰京した。(中略)何か月ぶりで帰るわが家にも、玄関から入れてもらえず、リュックサックにゲートル姿、目ばかりギョロギョロした虱(しらみ)だらけの少国民は風呂場に直行、まっ裸にされて虱の侵入が防除された。パンツを脱ぐと、ゴム紐(ひも)のしわに米粒くらいの虱がピッシリとしがみついていたのを思うたび、体中がむずむずと痒(かゆ)くなる。
  その直後三月九日の深夜、突加B29が二九〇機以上も来襲したという未曽有の大空襲に見舞われたのだから、そのショックはあまりにも大き過ぎた。
  廊下のガラス戸に震える手でもたれ茫然と立ちすくんで宙を見上げるだけ……この夜の爆撃が推定死者一〇万人を越えた東京大空襲である。
  中学進学のために私たちと相前後して東京に帰ってきた本所、深川の疎開学童の多くがこの夜の空襲で幼い命を失った。(『地球の目撃者』)
 
 昭和20年3月は空襲と警報の連続する最中であった。
 そのため、卒業式のできなかった学校や卒業証書を渡されなかった者もいた。次の記録は当時の様子を記している。
 
  昭和二〇年三月、疎開先から、卒業する子どもたちが帰ってきました。しかし、このころ、東京への空襲がもっともはげしかったものですから、学校のまわりは、一面火の海でとうとう卒業式はできませんでした。その後三三年たって、ようやく、檜町小学校の体育館で卒業式を行い、乃木国民学校の卒業証書を手にされた人たちの気持ちは、とても一言では言いあらわすことのできないものだったでしょう。(檜町(ひのきちょう)小学校九〇周念記念誌)
 
 警報下の卒業式
  昭和二十年の三月、壇の上に飾られたきれいな花もない。もちろん紅白の幕も張られていない。いつ警報が出るかわからぬままにあわただしく不安の内に迎えた卒業式。椅子も出さないで、立ったまま並んだ五十余人の卒業生(筓(こうがい)国民学校六十周年記念誌『筓』)
 
  縁故疎開で散りぢりになった級友もあって、……ようやくのおもいで集団疎開から帰校したグループのつかれ切った顔、顏、顔。
  本来なら六年間の小学校生活の中で一番華やかであるべき卒業式に、在校生の見送りもないまま、校長先生と教頭先生、それに六年担任四名だけのまことに淋(さび)しい卒業式
  校長先生の短い訓話が終わるころ、定期便の来襲を告げる警報が不気味に鳴り渡って……「では、校庭で証書を渡しますから」という校長の声で一勢に校庭にとび出した児童に一言の別れも言えぬまま急いで証書を渡すと「家に帰りつくまで空襲警報が出たらどこの家でもいいから防空壕へ入るんですよ」と追いかけるように言っただけで別れてしまった子供たち。「仰げば尊し」もうたわず、「蛍の光」もうたって貰えなかった子供たちであった。
 
 「昭和二〇年三月二五日は卒業証書をもらわなかった。」又、「記念写真もない」という声があちらこちらからあがり、前記の乃木国民学校のように、いろいろな形で、当時をしのぶ卒業式を行った所も出てきた。
 
  神明小学校では、六〇周年を記念して、同窓会総会を行った。一〇月に入り再度新聞紙上に広告し、一〇月三〇日、同窓会総会、創立時の世良先生始め、恩師多数を迎えて四〇〇名を越す盛会となった。終戦時卒業証書をいただけなかった方々に改めて校長先生から授与された。亡き姉に代わって証書を受ける妹さんの姿は涙をさそった。
  人の世の美わしき姿を随処に展開して、この意義ある会合を終わった。この夜大門及び浜松町界隈のレストランや料理店は各期のクラス会で、おそくまで歓声がたえなかった。
 
 『南海』開校百十周年記念特集号に、次のような1ページが掲載されている。
 
  「お待ちどうさまでした。」三八年ぶりに卒業証書を手にした皆さんは昭和一九年度に東京市南海国民学校初等科課程を修了した一五人の方々で、目がしらをおさえる姿があちらこちらで見えました。
  当時は、太平洋戦争末期の戦禍のため栃木県塩谷郡藤原町に集団疎開し、二〇年三月ごろは空襲がひどく卒業式どころではありませんでした。百十周年を迎えた本校で、六月の同窓会において当時の卒業生である佐々木功さんの発案により、本日の式典に及んだわけで、この思わぬ卒業式に列席した当時の恩師の方々や二百人余りの来賓の方々も、心より拍手を贈りこの式典を一層感慨深いものにいたしました。それにも増して心のこもったものは、佐々木さんの自筆による証書と現校長の名前で、「……百十周年記念式典の日にこの証書を授与いたします」と書き添えられたものを一人一人に手渡され、記念深いものとなりました[図62][図63]。

[図62] 卒業証書


[図63] 卒業証書授与式・南海小学校

関連資料:【文書】小学校教育 お別れ会と新疎開児童
関連資料:【学校教育関連施設】