子供を集めて授業をしたが、空襲になると、授業をやめて、解除になるとまた授業をやったりして何のためにやっているのか判らなかった。先生は、私のほかに一人であった(教頭)。
寺子屋教育を始めるという話がありまして、疎開しない子供を集めて歌を歌わせたり、体操などやらせてくれないかと、役所から言われました。場所は学校でない所というので、私は、幼稚園の部屋を借りて、一年から六年まで、十二・三人を集めて始めました。山賀先生は氷川神社の境内でやりました。すると新聞社から写真を取りにきて、その日の夕刊に出たりしました。ああいうような形で教育したのも戦争中の忘れられない思い出です。児童の学習の道具もなく、先生の話を聞く程度のものでした(訓導)。
私は戦争中一人学校に残って苦労しました。残っていた二〇名ばかりの児童の面倒をみていました。学校には焼け出された住民も住んでいました。家庭の事情で疎開できなかった児童です(養護訓導)。
(檜町(ひのきちょう)小学校六十五周年記念誌『ひのき』)
[図65] 集団登校
氷川国民学校の場合、昭和20年(1945)5月26日 夜の大空襲により学区域ほとんど全焼した。
当夜当直は浅野訓導一人であった。焼夷弾落下が最初日枝神社附近に、次に氷川公園から九条家の方へ、次に三井邸の方へやがて学区域ほとんどが猛火に包まれた。学校に防護団がいた。皆町に出払い帰って来ない。講堂に強制疎開の廃材が山と積まれ入っていた。何としても校舎を火災から救おうと入りきれない。襖(ふすま)や畳をひきずって、塀(へい)から下の道路に投げおろし鉄の扉をしめた。玄関に廻ったらうずまく火の子が扉の下から吹きこみ、下駄箱と病院のべット用わら布団と木炭に火がついてくすぶっていた。火災からのがれて、学校に集って来た人々が廊下に並べくらやみをプールまで並んでもらい水をバケツリレーして注水した。病院は火傷患者の治療に追われていた。空襲当時学校に御真影が無かったことが一番安心して防火活動ができたことであり、私の家族がそれぞれ手伝ってくれたことが氷川国民学校を猛火から救ったことであった。(「浅野澄雄」手記より)