教職員の苦労[注釈16]

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 昭和19年9月7日、東京都教育長より、「集団疎開学童ノ教育ニ関スル件ノ抜粋」として、「第八条職員ノ服務」について通牒(つうちょう)が出されている。
 
 (一) 職員ノ服務ニ関シテハ官吏服務規律、東京都公立学校職員ノ進退並ニ職務ニ関スル規程等ニ依ルノ外特ニ左記事項ニ留意シ職務ノ遂行ニ努ムルコト。
  1 受入側県ノ指示ヲ恪遵(カクジュン)シ地元国民学校ノ経営方針ニ従ヒ服務上遺憾ナキヲ期スルコト
  2 学寮長ハ寮舎ヲ統轄シ之ガ経営ニ当リ且原則トシテ学級ヲ担任シ地元国民学校長ト緊密ナル連絡ニ当ルコト
  3 訓導又ハ助教ハ学級ヲ担任スルノ外学寮長ヨリ命ゼラレタル寮務ヲ分掌スルコト
  4 養護訓導又ハ養護婦ハ児童ノ養護衛生ニ当ルノ外学寮長ヨリ命ゼラレタル寮務ヲ分掌スルコト
  5 省略
 (二) 雇傭員並ニ嘱託員ノ服務ニ関シテハ職員ノ服務ニ凖ズルノ外別ニ左ノ事務ニ当ルモノトス
  1 寮母ハ寮舎ニ於ケル児童ノ寝具、衣類ノ補綴、洗濯、所持品ノ整理、配膳、食器ノ整理、就寝状況等ノ看護其ノ他学寮長ヨリ命ゼラレタル寮務ニ当ルコト
  2 作業員ハ炊事ノ外学寮長ヨリ命ゼラレタル作業ニ従事スルコト
  3 寮医ハ定期ノ検診疾病ノ予防治療給食、其ノ他児童ノ健康増進ニ関スル事務ニ当ルコト
 
 現地に於ける教職員の服務は、通牒の範疇(はんちゅう)を越える実情で、24時間勤務のことば通り、また、教職員の一致協力、児童の命を守る心に徹してはじめてなし得る疎開教育であった。1年3カ月、また場所によっては21年3月までの1年半にわたる短期間であったが、当時、家族を疎開させたり、東京に残したりして、赴任した先生方にとっては、10年の歳月を過ごしたかの様な気持を持ったことは、連日1日の授業時間の3倍の時間を費したことを考えるとうなづける事実である。
 当時の御田(みた)高等国民学校長は次のように述べている。
 
  産業戦士家庭の幼児を預かり育てる戦時御田托児所が校内に開設さる。聖坂にあった御田高等国民学校が廃校となって、その高等科男生七学級を迎え入れる。御田学校にはすでに青年学校が併設されていたが、こんどは高等科の併置である。その教育と勤労動員の管理指導がわたしに課されたのである。御田学校は、托児所、初等科、高等科、青年学校の大世帯となった。学童の第一次集団疎開が始められた。わが御田校は鞆絵校と共に川治温泉の川治ホテルに疎開した。
  陛下の御真影は、西多摩郡三田村沢井の三田国民学校に奉遷され、各学校長が交替で宿直守護の任に当たった。(中略)
  どこへ行くにも、ゲートルをつけ鉄カブトを持って歩いた。高等科生の動員先でもたびたび空襲警報にあい、疎開先への往復の東武線中でもたびたび空襲にあった。鬼怒川の先、新藤原駅からの山道を雨の日、風の夜、また月の雪路を踏んでせっせと歩いた。地勢的には安全な川治でも食糧事情はぐんぐん悪くなり、野菜不足がひどくなって、だんだんと青ざめていったあの学童たち、ああ、今でも目に浮かぶ。疎開学園主任の清水喜作先生たち職員は大いに努力して野菜畑の開墾までされた。(『御田小学校九〇周年記念誌』)
 
 校長と学寮長、1校で5~6学寮に分かれている所の本部の学寮長の連絡を緊密にとる苦労は並大低のことではなかったと思う。南山、芝浦、赤坂などには、当時の校長との連絡や報告の封書、葉書などが、大変多く保存されていて貴重な資料である。[図66][図67]の葉書は赤坂校の例である。

[図66] 蓮花寺学寮長より報告・赤坂小学校


[図67] 長円寺学寮より報告・赤坂小学校

 芝浦国民学校の疎開日記のメモによっても、終戦を迎えても食糧事情悪化のため再疎開をした時の苦労の様子を知ることができる。
 
  「塩原ヨリ福原ヘノ再疎開」 昭和二〇年九月
 一二日 再疎開準備ノ為福原へ 西那須野ヲ経由、太田原ノ那須郡地方事務所、トラック会社、佐久山町役場、本郷区湯島校ノ寮、宿舎タル、金剛寺院、福原国民学校等歴訪、太田原ヨリ三里半徒歩 金剛寺院ニ一泊。
 一三日 部落会長、名誉職十数氏訪問ノ後塩原へ帰ル、一里半徒歩
 一五日 午前、児童全部ヲ引率トラックニテ輸送 午後第二回荷物輸送
 一六日 午前第三回、午後第四回荷物輸送 (第一回荷物輸送ハ一四日ニ)
 一七日 第五回目ノ荷物輸送交渉ノタメ太田原へ出張、片途バスニ乗レザル為、約五里ヲ徒歩
 一八日 第五回(最終)荷物輸送 米麦ノ配給ヲ受ケタルタメ女子訓等三名ヲ連レ佐久山町ニ行ク 荷車ヲ曳(ヒキ)テ往復徒歩二里半
 二二日 福原国民学校職員会ニ出席
 二三日 塩原ト打合ノ為、電話ヲカケニ太田原ヘ行ク、帰途福原南部会長ヲ訪問 山中ニテ雨ニ降ラレ約半里ノ間ニ体内マデ突通ノ始末、合計七里ヲ徒歩ス
 二四日 本日往復九里徒歩
 二五日 午前九時半 佐久山国民学校ニ於ケル戦没者慰霊祭ニ児童代表ヲ引率シ参列、午前一一時ヨリ傷夷軍人、遺家族応徴士感謝会ニ出席、コノ日約二里半徒歩
    ◎二三・二四・二五日ノ三日間 朝食、昼食ヲ摂取シタリシナカッタリ弁当ノ代リニ唐モロコシヲカジリ、時間ハヅレニ食事シタリ、毎日数里ノ道ヲ強行軍シタルタメ胃ヲ害シ疲レモ手伝ヒタル為、二五日晩、二六日朝ヲ絶食、粥(カユ)食 体重四百匁激減
 二八日 午前六時三五分気温 摂氏十五度半、相当冷涼ヲ覚ユ
 
 寮母、作業員には、父兄に働きかけて、卒業生などに応援してもらったケースもある。また、地元の人達に作業員になってもらうことも多かったため、割合と移動があり、学寮長よりの報告に人を探す苦労が述べられている。飯倉(いいぐら)国民学校の6年生が光明禅寺の寮母さんにあてた葉書が大切に保存されていた。当時の事情をうかがうことができよう。
 
 寮母さん半年といふ長い間お世話下さいまして有がたうございました。三日正午上野に着き学校に一時前、家に一時半頃着きした。無事に家に着くことの出来たのは、寮母さんや先生のおかげだと思ってゐます。東京へ帰ったこれからもよく勉強し体をきたへて強いよい日本人になります。
  さて、四目目がさめるともうポーが鳴り出しました。五日の夜明近くにもポーが鳴り出し、づしん/\高射砲だか爆弾の音がしてゐました。ではお体をたいせつに さようなら、又
 三月五日
 
 昭和19年8月児童疎開の寮母として(昭和14年芝小卒)働いた人の日記には、
 
 ○月○日 六時、小川で顔を洗い、勤行をして食事、夜は珍らしいランプの灯です。食用蛙が牛のような声でなき、蛇がかま首をあげてすいすい泳ぎます。足をブヨにさされて、浴衣(ゆかた)地のほうたいがかんぴようのように干してあります。
 ○月○日 お月見だからたべたいだけ食べた。みんなおなかを出してフウフウと苦しそう。毎日苦しくなるほどたべさせてやりたい。父母へ手紙を書く子、名月やと一句ひねる子、大きなこえで歌をうたう子、たのしい日がいつもあるといい。
 ○月○日 お正月も、もう近い。町の風呂へいってかえると髪の毛はパリパリ、かっぱの子。下げたタオルも棒のようになってしまう。三度の食事も充分でない子供たちのために、お八つをつくろう。小麦粉は村はづれの水車で洋服地ととりかえた。あんこはさつま芋とサッカリン、今川焼の道具を買って毎日売るほどつくる。そんなものでも喜んで「ぼくたちお八つが出るぞ」とほかの寮へ自慢する。
 
 「私たちは、一生けんめいやっている。でも遠く離れた家族は、いろいろな噂を耳にして心配する。人ごとではない。自分も誤解されているかも知れない。でもお姉さんといって親しみ信じてくれる。子供達はかわいい。あちこちの空襲のひどさがつたわってくる。無事に両親のもとに帰るまで自分の命をちぢめても祈る。」
 
と書きしるしている。日記はまさに、疎開に献身的な努力をした教職員の心であり、姿であった。
 学寮の中で教職員が分担した仕事をこえて、子どもの無事な姿を、両親のもとに届ける日まで、食糧調達に走りまわり、交通不便、一日にバスが2回とか3回、徒歩がほとんど、自転車を求めることも大変であった。急に発熱、けが、死亡者も出た段階で、教職員の苦労は、筆舌につくしがたいものがあった、と懐古する教員もいる。
 疎開地からも、次々と応召された教職員、あとに残り手薄になった先生の補充にも苦心談があるという。
 昭和20年12月7日に、「学童集団疎開派遣教職員ニ対スル長官感謝ノ言葉伝達並ニ反省会開催ノ件」が出され、東京都長官、広瀬久忠より、謝辞が伝達され記念品が贈られた。
[図68][図69][図70][図71][図72][図73][図74][図75][図76]

[図68] 鬼怒川学寮の先生達 神明・南桜・三光教員(岸田芳郎氏提供)


[図69] 柏屋から玉屋へ・高輪台国民学校


[図70] 川治温泉 柏屋旅館・白金国民学校


[図71] 本堂脇廊下の洗面所・喜連川慈光寺・芝国民学校


[図72] 鬼怒川温泉 星野屋旅館・三光国民学校引率教諭の部屋当時のまま


[図73] 東大和市 蓮花寺・赤坂国民学校


[図74] 日野市 寿徳寺・氷川国民学校


[図75] 武蔵村山市 長円寺・赤坂国民学校


[図76] 武蔵村山市 真福寺・赤坂国民学校児童が暮した本堂床の変色は塩袋をおいたところ

関連資料:【文書】小学校教育 御田高等小学校の学習指導