戦争末期の相続ぐ空襲により東京の60パーセントが廃墟と化したといわれている。都心部である港区も再三の空襲にあい昭和20年(1945)8月15日の終戦を迎えるまでにほとんどが焦土と化してしまった[図1][図2]。特に被害の大きかったのは3月9日から10日にかけての大空襲及び5月23日、24日から25日にかけての空襲で、これによってほぼ壊滅状態となった。3月9~10日の空襲は江東地区が爆撃目標とされ、東京都市部の40パーセントが罹災(りさい)し、10万人以上の死傷者を出した。芝区でも家屋の半数が空襲で焼失した。5月23~25日の空襲では、麻布区が攻撃の目標とされ、麻布区、赤坂区の面積の70パーセント以上が罹災している。また、25日から26日にかけての空襲で皇居の一部が焼失した。その後も空襲は続き、終戦の2日前、8月13日、白金三光町(さんこうちょう)が艦載機の攻撃にあい、死者4名、罹災者51名を出す被害を最後にようやく終戦となった[注釈1]。
[図1] 戦災による罹災面積・損失家屋及び人的被害(東京都公文書館所蔵資料より作成)
[図2] 太平洋戦争時の空襲による焼失港区地域・昭和20年8月15日現在(『港区史』)