食糧難と住宅難の区民生活

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 戦時中からの物資の欠乏により、統制経済配給制度がとられていた。これは終戦後もしばらく続くのであるが、終戦後は敗戦の混乱のため、特に昭和20年は40年来の凶作の年でもあり、主食である米の遅配・欠配が相つぎ、甘藷(かんしょ)、大豆、麦類、とうもろこしなどの雑穀類が主食として配給された。食料不足は深刻な社会問題となり、「米よこせデモ」などの運動が起きる一方、都内の住民は食料を求めて農村へ買出しに出かけた。敗戦後のインフレーションの進行する中で、貨幣価値が低下し、食糧と衣類の交換が行われ「たけのこ生活」の新語が生み出されるに至った。
 食糧難を解消するために焼跡のそこここで家庭菜園が作られていたが、区でもこれを奨励するために、種子、苗の斡旋、品評会、講習会、実地指導などを行っていた。
 家屋の80パーセント以上が戦災によって損失し、住宅は極度に不足していた。罹災者は焼跡に焼け残りの資材を使ってのバラックか、他人の家に同居することを余儀なくされ、加えて外地からの引揚者、疎開地からの転入者の激増によって、ますます住宅事情は悪化し、大きな社会問題となった。都は昭和20年9月には罹災者用の簡易住宅(応急簡易住宅15平方メートル以下、トタン板も瓦(かわら)もガラスも使用しない)を罹災地に作る予定をたてたが、建築資材の不足のためはかばかしく進まなかった。
 区内では昭和21年5月に、都営住宅が麻布区東町に29戸、6月には、芝区汐留町14戸、通新町40戸、8月に芝区白金三光町に44戸、麻布区富士見町に35戸建てられた。しかし、これも焼石に水で、人々は万難を排して、我が家を建設することになるが、住宅の建設が活発になるのは昭和27年「住宅金融公庫法」の施行後であった。また、各学校には、集団疎開地よりの引き揚げ、復員、あるいは焼失による住宅難の教員のために、臨時措置として校舎の一部が使用されていた。焼失校では、バラックのような校舎の建設でも急務とされた。