都市計画に基づく復興

7 ~ 8 / 444ページ
 国や都は戦災地の復興にあたり、計画的な都市づくりを目指した。すなわち、政府は昭和20年10月戦災復興院を新設し、同年12月30日「戦災地復興計画基本方針」を決定、これを受けて都は復興計画をたてた。これに基づき、東京復興都市計画街路幹線街路の告示(昭和21年3月戦災復興院)、同補助線街路(同年3月戦災復興院)、住居・商業・工業地域、未指定各地域の指定(昭和21年8月)、高速度鉄道(地下鉄)、河川、公園、駅前広場などの復興計画もたてられ、計画的な都市建設が進められた。
 これと並行して土地区画整理が行われることになったが、昭和21年4月戦災復興院より「都市計画土地区画整理施行を必要と認められる区域」が告示された。これには麻布区の全部、赤坂区の大部分、芝区の一部が含まれていた。
 その後、緊縮財政から戦災復興計画の再検討が加えられ、本区では、麻布十番付近、麻布第一復興区画整理組合(麻布六本木、三河台町)の両地区のみが実施されることになった。特に麻布第一復興区画整理組合は昭和21年11月発足、自主的に区画整理をした都内第1号組合として注目を集めた。
 多くの困難を克服し、麻布第一復興区画整理組合の区画整理事業は、昭和30年、完成した。約10年を要したことになる。
 また、麻布十番付近土地区画整理事業は昭和21年度の灰燼処理事業よりはじめられ、昭和22年度より宅地、街路、公園等の造成が進められた。『港区史』によると、昭和35年には精算事務に入る予定とされているので、15年の年月をかけての事業ということになる。