当時の状況

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 区の統合整理22区案が都長官より指示され、各区会で審議されたが、芝・麻布・赤坂各区会とも芝・麻布・赤坂3区統合に対して強い反対の意志を示して都案を否決している。
 芝区………原案賛成4名 反対18名
 麻布区……原案賛成5名 反対19名
 赤坂区……全員反対
 同時にそれぞれの区が決議書、理由書を都に送っている。しかし、3区とも区統合自体に反対なのではなく、
統合される相手区に対して難色を示している。各区の主張を当時の決議書、意見書、区会会議録(『港区史』)より要約すると、
 
  芝区 …我区は人口、面積、負担力が当局の示す一区の標準に達している。芝区を独立した一区とし、麻布、赤坂区を併せて一区とするのが妥当である。
  麻布区…芝・麻布・赤坂の三区は民情の相違が大きいため地縁団体としての融合が困難であると予想される。比較的民情を同じくする赤坂区との統合ならば実現するであろう。
  赤坂区…どうしても統合する必要がある以上は、経済的な資格、地理的な実情、伝統的な民情が似ている麻布と赤坂が合併することが理想的である。
 
となっていて3区とも芝区と麻布・赤坂合併区の2区の新設を望んでいたようである。
 これに対して都は、あくまで22区制を堅持し各区に対して、再議決を指示した。この指示に基づき、各区会はそれぞれ再議を行い、芝区は昭和22年2月25日、全員一致で原案可決、麻布区も同年同月26日原案可決、赤坂区も26日原案可決した。当初の各区強硬な反対決議が一転して都案を了承した事情は、麻布区会が再議に際し、委員会付託した時の委員長(石橋力次郎)の報告がよく伝えている。
 
 (前略)ソモソモ本案ガ去ル二月一七日ノ区会ニ再議ニ附スベキヤ否ヤニツイテハ私共ハ再議不用寧(ムシ)ロ返上論ヲ主唱シタ一人デアリマシタガ事案ノ重大性ニ鑑ミ各方面ノ客観情勢等モ勘案ノ末再度調査研究スベシトノ御意見多数アリテ、区会トシテハ曩(サキ)頃ノ一切ノ行懸(ガカ)リヲ白紙ニ戻シテ再審議シ其ノ結論ヲ見出サントシテ設ケラレタルノガ委員会デアツタ。
 斯クシテ委員等慎重審議ヲ重ネ、其ノ間情勢ハ一日一日ト形勢変貌(ボウ)シ強硬ト伝へ聞イタ日本橋区或ハ小石川本郷更ニ下谷区ノ如キ漸(ヨウヤ)ク原案賛成区ガ増大シ、残ル当三区モ芝ノ如キモ既ニ大勢決シタルヤノ情勢トナリ加へ選挙期日ノ告示等ノ事情モアリ昨二月二五日ニハ内務大臣、都長官ノ臨席ヲ得テ政府筋ノ意向等モ最後ハ原案執行ノ決定ヲ仄(ホノメ)カサルルニ至ツテ、ヤガテハ原案執行ノ前ニ屈セネバナラヌ終局ニ逢著(ホウチャク)シタノデアツタ。
 ソコデ委員等協議ノ上、日本行政史上曾テナイ此種事案ノ原案執行ノ責任ヲ採(ト)ル一歩前ニ於テ、寧ロ幾分ナリトモ区民ノ為公共ノ福祉ヲ増大スベキ有利ナル協約ヲ得テ原案賛成ニ進ムルヲ最モ賢明ノ策ト信ジ既ニ都長官ノ裁決ノミデ何卒賢明ナル各位ノ御承認ヲ御願ヒ申上ゲ委員長ノ御報告トイタシマス。(『港区史』)
 
 昭和22年3月15日、22区が成立し、同年5月3日地方自治法が施行され、特別区が誕生したのである。
 新発足した港区は、旧麻布区役所を本所とし麻布、芝、赤坂の旧区役所庁舎内に支所を設けた。その後、昭和22年12月27日、区役所は、その位置を芝支所に移すと同時に芝支所を廃止した。これにより区役所、支所(麻布・赤坂)、出張所(新橋、愛宕、竹芝、三田、田町、高輪、三光、飯倉、筓(こうがい)、本村、赤坂、青山)が設けられた。
関連資料:【くらしと教育編】第1章第1節 (2)戦後の港区