学校の被害状況

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 『戦後東京都教育史』(学校教育編)によると、終戦当時全焼、大破、焼失した国民学校は全都でその半数に及ぶという[注釈2][注釈3]。その中で全焼校95校、大破、焼失校11校が廃校となった。昭和21年(1946)3月現在で、全都には全焼校、大破、焼失校合せて253校あり公立国民学校の35パーセントになるということである。
 港区でも29校中10校が罹災(りさい)している。全焼したのは芝、芝浦、御田(みた)、神応(しんのう)、飯倉(いいぐら)、東町、三河台、赤坂、青南の9校であり、青南国民学校は外壁、内部のコンクリート部分だけが残った状態であり、このほか、青山国民学校は校舎の木造部分が焼失している。このうち、飯倉、東町、三河台の3校は廃校となった(後に飯倉、東町は復活し、三河台だけは廃校のままとなっている)。全焼を免れた学校でも戦災を受けなかった学校は少なく、ほとんどの学校がその施設の一部を焼失している。
 児童が疎開して空教室の出た学校は、軍隊の兵舎としてまたは、諸官庁の事務所として使用された[注釈4]。また空襲によって学校周辺が焼失した時は、罹災住民は学校を避難所として集まってきた。家屋の疎開によって出た廃材置場となった学校もあり、各学校とも荒れるにまかせた状態になった。そこで終戦後の学校再開にあたり、その整理に大変な労力をかけなければならなかった。
 
関連資料:【文書】教育行政 国民学校の戦災状況
関連資料:【学校教育関連施設】
関連資料:【くらしと教育編】第5章第1節 (2)大正~昭和戦後初期
関連資料:【くらしと教育編】第5章第3節 (1)学校の罹災(りさい)状況