学童を空襲から護るために、各地に疎開させた学童疎開も終戦と共にその意義を失った。しかし、終戦直後の東京は一面の焼野原であり、未曽有の住宅難、食糧難にあえいでいる状態であり、直ちに集団疎開の学童を復帰させるのは困難であるとの判断から、集団疎開を昭和21年3月まで継続する方針がたてられた。一方、我が子を一日も早く引き取りたいという親の願いも強く、独自に疎開地より引き取る親が続出した。このため、都は当初の計画を変更し、10月から復帰する輸送計画をたて学童疎開の復帰業務が開始された。港区内の各学校でも10月ごろより帰京している。
しかし桜田・桜川・南海・芝浦各国民学校では、再疎開を実施しており、また、昭和21年3月まで疎開地に残留している学校(芝、高輪台、麻布、乃木、青南)もあった。それぞれの学校の事情、判断、父母の要望などがうかがえる。
10月ごろより正常授業を開始している学校が多い。各校ともこのころに児童が集団疎開、縁故疎開よりほぼ復帰していることがわかる。
関連資料:【学校教育関連施設】