区内各学校では疎開児童が復帰して児童がほぼそろった所で学級編成がなされた。その上で授業が開始されている。しかし、戦時中の他団体の校舎使用や戦火により、施設のいたみはひどく、罹災校の同居の中で授業が続けられた。
校舎を戦災により焼失した区内の各校の児童は、それぞれの近隣学校で教室を借りて学校生活を送ることになった。教室不足のため2部授業を余儀なくされ、また学区域を越えて遠くの学校まで通学しなければならない不便さ、また通学途上の危険などから、戦災校の校舎復興は父母の強い要請となって陳情された。終戦直後の物資不足の折から校舎の再建は困難をきわめたが、区の努力、住民の協力によって、昭和22年、芝浦国民学校の校舎新築(7教室)を皮切りに戦災校の施設が復興されていった。しかし、これも戦災校の全児童を収容するにはじゅうぶんではなく、自分の学校に帰れたものの2部授業はしばらくの間続いた。
昭和22年、六・三制の義務教育制度の実施により、新制中学校が設置されるに及び区は10年間、学校建築と施設の充実に終始しなければならなかった。
[図4] 焼け残った学校(氷川国民学校『記念誌』)
[図5] 復興した校舎(御田小学校『記念誌』)
関連資料:【学校教育関連施設】
関連資料:【くらしと教育編】第5章第3節 (1)学校の罹災(りさい)状況