終戦後、日本を管理下においた占領軍は、その政策達成のために教育に関しても四大指令を初めとして、さまざまな指令を発した[注釈5]。その意図するところはまず、今までの戦時教育体制の解体であった。極端な国家主義的及び軍国主義的教育の排除の次に新教育体制の確立をめざし、連合国軍最高司令官は米国の教育学者の助言を得るために、米国政府に教育使節団の派遣を要請し、日本側に対しては、この使節団に協力するよう指令した。
米国教育使節団は、昭和21年(1946)3月に、約1カ月の調査研究の末、報告書を提出した。この報告書に述べられている日本の教育に対する勧告がその後の教育改革の基本方針となった。また、占領軍は、日本政府に対して報告書の勧告を実現するための機関の設置を指令した。
政府は内閣の諮問機関として「教育刷新委員会」を発足させ、同委員会は教育使節団によって方向づけられた教育方針の具体化を進めていった。報告書提出1年後、昭和22年3月31日「教育基本法」「学校教育法」が公布され、教育の基本原理と学校制度が決定された。
この結果、戦前の複雑な学校体系は改革され、小学校、中学校、高等学校、大学と一本化された。従来の国民学校初等科は小学校と名称を変更、高等科は廃止、中学校と高等学校が新設され、6カ年課程の小学校、3カ年課程の中学校を合せた9カ年の義務教育制度が発足した。六・三・三・四制の学校体系が確立し、義務教育年限の延長と教育の機会均等の新制度ができたのである。