戦災を受けた学校

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 戦火のため区内国民学校のうち全焼失した学校は9校、一部焼失また、被害を受けた学校は3校であった[注釈1]。幼稚園では、中之町の園舎大破、青山国民学校附属幼稚園が全焼している。
 どの学校も、ほとんどの児童が疎開しており、わずかな残留者を残すのみで、児童への直接被害はなかったが、職員室を近隣の学校に移し、事務連絡をとりながら、残留児童を集めて寺子屋式の授業を行った。このような間借生活が戦後もしばらく続いたのである。
 太平洋戦争の末期は、空襲の激化に伴い地域の住民の避難場所として使われ、また被災者収容所として利用されるようになったり、兵舎としても利用された。このほか、焼け出されて疎開して来た官庁、鉄道の管理部、配給所、病院など様々な団体が入り込み校舎を利用した。終戦になっても立退かず、また行き先のない被災者の住居として利用された学校もある[注釈2]。被災校の児童も受け入れて、戦災をまぬがれたものの、正常の教育活動ができなかった学校も多かった。
関連資料:【くらしと教育編】第5章第3節 (1)学校の罹災(りさい)状況