終戦直後の疎開地の児童

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 8月15日、「本日、正午天皇陛下ノ御放送ヲ謹ンデ拝聴シ奉ル」と白金国民学校の学校日誌に記載されている。同校と同じように、栃木県の塩原、鬼怒川、氏家方面へ疎開した芝地区、佐野、足利、栃木、田沼方面の麻布地区、東京都南多摩、北多摩方面の赤坂地区の各校児童は、それぞれ疎開学寮で、ラジオを通して大変聞きとりにくい放送であったが、終戦の事実を、同時に受けとめ、学寮長より戦争の終結についてよくわかるように説明を受けた[注釈3]。当時の様子を、学寮日誌でみると、
 
 八月一五日  一 オ宿ノ墓参ヲナス
        一 空襲警報発令、午前六時半頃
        一 本日、正午ヲ期シ全児童玉音ヲ拝聴ス(芝浦)
 
 八月一五日  戦争終結に関する詔書を聖上御自ら御放送あそばさる。
 八月二二日  疎開一週年記念日、宿の御好意のおやつを頂く。終夜雨降る。
 八月二七日  異常無し、午後、農耕作業。(神明)
 
 八月一五日  起床六時、午前中自由、午後午睡、昨夜ノ空襲ノ為、睡眠不足ニテ予定通り出来ズ。
        正午 放送聴取
        其他病人事故ナシ、寮母花緒(ヲ)作リ、下駄箱大整理
        米三・九升、豆、一・八升、朝 わかめミョウガ味噌汁 昼 とろゝこんぶの汁 夕 ジャガイモニシンノ煮付(赤坂)
 
 終戦当日の疎開地の生活は、平常と変らぬ日程を送っていたことがわかる。
 8月15日を境にして、本校と疎開地の連絡は、十分にとることができなかった。特に、国鉄、東武線共に、乗車切符の購入が規制され、乗車は困難であった。疎開地を通って東京方面に向かう軍部のトラックなどに便乗し、情報に乏しい東京の実際を知るため連絡に当たり、また、父兄の訪問により学校周辺の様子を聞き、児童たちに不安を与えぬようにするなど教職員は苦労をした様子が当時の記録からうかがえる。
 都内の状況は、衣食住すべてに不足し、都民の生活は、ますます苦しいものとなっていった。児童の通学していた学校や家族の住宅も焼失したり、破損を免れても、同居を余儀なくされている現状であった。そこで東京都では長官名をもって疎開継続の依頼を行っている。
 
 教国発第四六四号
   昭和二十年八月二一日           東京都長官
    県知事殿
   学童集団疎開ニ関スル件
  戦争終結ニ依リ学童集団疎開ハ之ヲ打切ルベキ筈(ハズ)ノ処一般人員疎開者ノ都内復帰ヲ為サシメザルコトト相成タル次第モ有之且本都ニ直ニ多数学童ヲ迎ヘルコトハ都内ニ於ケル校舎、住宅、食糧等受入各般ノ現状ヨリシテ適切ナラザル様被思料候ニ付主務省ト協議ノ上尚暫ク現地ニ於テ教育ヲ継続セシムルコトニ致度洵(マコト)ニ御迷惑乍(ナガ)ラ御諒承ノ上今后共宜敷御配慮賜度右御依頼申上候
 
 引き続き、「集団学童復帰計画要項」が示され、学童集団疎開は昭和21年3月31日まで継続することとなった。また、10月中旬より、11月末日までに復帰について計画輸送することが示されている。
 
 一 集団疎開学童ハ概ネ昭和二一年三月迄現在ノ儘(ママ)疎開ヲ継続スルモノトス
   但シ戦争遺児其ノ他戦災ニ依リ家庭ニ引キ取リ難キモノハ別途学寮ヲ設ケ、之ニ収容ス
 二 疎開学童ノ引取ヲ父兄ガ希望スル場合ハ学校長ニ於テ左ニ概当スルモノト認メタル者ニ限リ都内ニ復帰セシムルコトヲ得(略)
 (復帰ノ条件)
   都内ノ農村地帯ニ住所ヲ有スルモノ
   温泉場等デ特ニ食糧事情不良ノ地域ニ集団疎開シタモノ
   疎開先ノ学寮デ施設及ビ寝具等ノ関係上越冬ノ困難ナモノ等ノ特別事情ノアルモノニ限リコレラ許可。
 五 疎開学童ノ一部復帰ニ依リ疎開学寮ニ余裕ヲ生ジタル場合現地ニ在ル児童ハ食糧事情、宿舎施設、冬期対策等好条件ニシテ学寮経営ニ支障ナキ学寮ニ統合収容スル様措置スルモノトス
 
 各学寮の報告をみると、連日のように、父兄保護者が、児童を連れにきて、一時帰省、縁故をたよって帰京する姿が目立った。神明国民学校神明第三学寮(福松の子供たち)の記録の一部を抽出してみる。
 
 九月 三日 男 埼玉県南埼玉郡清久村へ「学籍ハ一時現在ノマヽ」引続キ神明校ニ在学ノ希望ナリ
 九月一〇日 男 芝区浜松町ニ一時帰省(父同伴)(一五日位)
 九月一四日 男 母、姉来寮、本人引取、本籍地へ退寮セントス。
         病弱ノ為、家庭ニテ静養ヲ要ストノ理由デ都内転入、及ビ残留学級ヘノ編入ヲ禁止中ナルニ付、一時帰省ノ形ニテ、母親同伴帰省セシム
         一〇月四日、夜、母親同伴帰寮
 九月一一日 男 空襲ニヨル両親外家族死亡、叔父ニ引取ラル予定ナリ、鈴木、横山両叔父母来寮、面会ス
 
 以上は、ごく一例に過ぎないが、芝、麻布、赤坂の各区疎開地で、神明の学寮のような実際がみられたことと思う。
 赤羽国民学校の沿革誌の記載によると、
 
 昭和二〇年九月一日 学校長、塩原学寮常駐となり、篠原教頭校長代理を務む
 
とある。区内の各国民学校長には、次のような通牒が出されていた。
 
 芝総教発第六四号
  昭和二〇年八月二五日         芝区長  高田賢治郎
   国民学校長殿
  国民学校長ノ学童集団疎開地ヘ赴任ニ関スル件
  標記ニ関シテハ曩(サキ)ニ当所ニ於テ校長会ヲ開催シ趣旨御説明申シ上ゲ置キ候処今般都教育局長ヨリ九月一日ヨリ実施尚各学校長ヘ辞令ヲ用ヒズシテ夫夫(ソレゾレ)自校ノ学寮勤務ヲ命ゼラルヽ旨正式通牒越候ニ付テハ予テノ御
準備ニ従ヒ早急ニ任地ニ赴任セラルヽ様御措置相成度通牒候也
 
 「集団学童復帰計画要項」の第5項に示されたように、学寮を統合し再疎開をした学寮もあった。
 
   栃木県塩谷郡塩原町字下塩原町字下塩原清琴楼内
   東京都芝浦国民学校塩原学寮
  右学寮ハ昭和二十年九月三〇日ヲ以テ、那須郡佐久山町字福原金剛寿院福原寮ヘ移転完了セルヲ以テ廃止致シ候間此段及御報告候也
    昭和二十年十月五日
           栃木県那須郡佐久山町字福原福原寮
           東京都芝浦国民学校長       大伴武敏
  栃木県知事殿
 
 終戦により食糧事情困難のため、栃木県那須郡佐久山町福原金剛寿院福原寮へ再疎開したのである。児童19、職員6、作業員2と学校沿革誌に記入されている。
 
関連資料:【文書】小学校教育 集団疎開援助に対する感謝状