残留児童

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 空襲の激化に伴い、戦火を逃れるために始まった児童の疎開は、昭和19年より始まった(第4章に詳述)。集団疎開については、区内の国民学校は7月の下旬から8月の下旬にかけて実施され(試験的に6月に三光(さんこう)国民学校が実施している)、縁故疎開もこれと前後して実施された。当初は3年生以上が対象となっていたことなどもあり、かなりの人数の児童が残留していたようである。
 各校の記録(学校沿革誌)を見ると、白金国民学校、集団疎開児童570名(3年以上)、縁故疎開児童500名、残留児童550名(昭和19年9月現在)、麻布国民学校、集団疎開児童409名(3年以上)、残留児童657名となっている。しかし、空襲の激化に伴い、集団疎開の対象も1、2年、さらには、昭和20年4月には、新1年生にも及ぶようになり、区内の国民学校児童は激減するようになる。
 桜川国民学校では昭和20年4月13日第3次集団疎開の後は、残留児童は20名、南海国民学校では昭和20年の集団疎開(2年以上270名)の後は残留児童は30名、氷川国民学校、残留児童約30名、芝国民学校では昭和20年5月25日空襲により校舎焼失、6月25日より南海国民学校の校舎を借用して寺子屋式授業を開始したところ、出席児童5名であった。青南国民学校では昭和20年5月25日の空襲による校舎一部焼失後、残留児童を集めて授業を再開したところ、24名の出席があったと記録が残されており、これらから類推すると戦争末期には、区内に残留していた児童はごく少数であったといえよう。
 これら残留児童の教育も困難をきわめたことは前述のとおりである。
 記録の残っているものをあげてみると、
 
 氷川国民学校 昭和二〇年五月 赤坂氷川神社(訓導一名)児童、一五名位、霊南坂林誓寺(訓導一名)児童八名位、赤坂中ノ町天理教院(訓導一名)児童七名位で授業を行う。
 赤羽国民学校 学校を閉鎖、天祖神社社務所を借用、寺子屋式教育を実施する。
 青南国民学校 空襲で東側九教室残し焼失、残留児童を集めて授業出席児童二四名
 芝国民学校  空襲により全校舎焼失、昭和二〇年六月二五日、南海国民学校において寺子屋式授業開始、出席児童五名
 南海国民学校 昭和二〇年六月二〇日、残留児童二二名の教育
 芝浦国民学校 集団疎開後、残留児童は仮授業場で授業
 
 寺院や神社を借りての授業、他校で他団体との雑居状態の授業は、不自由が多かった。また、昭和20年になってからの空襲の激化は、白金国民学校の学校日誌・宿直日誌の記載をみると、
 
 昭和二〇年四月 一日 ㋘七・四五~八・一一 夜中二・〇〇~四・一〇
            ㋗二・三〇~三・五〇
         三日 ㋘一一・四五~正午 夜中〇・四五~〇・四六
            ㋗一・〇〇~四・〇〇
               (㋘警戒警報 ㋗空襲警報)
 
 警報のたびに避難することを考えれば、時間的にも授業の集中はできなかったであろう。
 戦後授業の再開は、9月1日 赤坂、3日 麻布、12日 白金であり、残りの学校では9月末になってようやく授業が再開され始めたもようである。
 
関連資料:【学校教育関連施設】