8月15日在寮児童93名から、終戦後1カ月のうちに疎開児童が激減している。一刻も早く帰京させたいという親心が当局の計画実施をまたず、自力でわが子を引取った結果であろう。
一方、食糧不足のため、終戦後9月になってから再疎開する学校、そのまま疎開を続ける学校もあった(第4章9節参照)。
[図2] 退寮する疎開児童(8月15日 在寮児童93名)
卒業児童は昭和二〇年三月父母のもとに帰ったが、終戦後は父兄の住居が安定した者から逐次引取りに来た。児童は苦しい中にも思い出多い北多摩の地に別れを惜しみつつ帰京した。全体的には昭和二〇年一〇月頃までに一応帰校を完了したが多摩村の宝性院だけは食糧その他の事情もすこぶるよかったので父兄もながくここに止まることを希望し昭和二一年二月中旬になって漸く帰校した。
(檜町(ひのきちょう)小学校「国民学校児童集団疎開資料」)
昭和20年10月より都の計画的な輸送もはじまり、ほとんどの学校が10月より11月までの間に帰京している。しかし、乃木国民学校(檜町小)の例のように現地に2月中旬まで残る児童もあり、最終の帰京は3月になった学校も数校みられた。麻布国民学校集団疎開学童の残留者全員が21年3月6日帰校した。
芝国民学校集団疎開学童第2次引揚げ残留児童35名附添職員2名引揚完了も21年3月6日であった。
縁故疎開についての記録は少ないが、学童集団疎開の児童の帰京と前後して復帰した様子である。
関連資料:【学校教育関連施設】