とりあえずの学校再開であったが学校の内は荒れるにまかせていた。この整理も学校の大きな仕事であった。この仕事は保護者、教職員、児童の手によって行われた例が多い。
昭和二一年四月一九日暴風中、運動場焼跡整理、八・三〇~一一・〇〇まで困難を極む。
木造全焼跡コンクリート網容易ならず、五年以上実によく奉仕す。職員児童の挺(てい)身涙ぐましきものあり。
四月二〇日 奉仕作業三日目八・三〇~一二・〇〇 崩壊せる網入コンクリート遂に除去、運動場周囲の花壇掘起こし旧態を見せるに至れり。師鍬を振るい、弟之を搬(はこ)ぶ掌に血豆を作り、砂をかみ傷つき孜々(しし)とし働く、感激す。
四月二二日 午前中奉仕作業、明日一日にて大体完了の予定、
四月二三日 焼跡花壇整理第五日目、本日をもって一応終了す。
(青山国民学校『学校日誌』原文は横書き)
また、当時の食糧難・住宅難の社会情勢は通学してくる児童にも反映されていた。
帰校当時の家庭の状況をみるとほとんど焼けトタンの堀立小屋程度のものが多く家族が芋の子のように狭い所で寝起きする者も多かったという。
本校は焼失を免れたが、赤坂国民学校、赤坂病院が同居し、本校、赤坂校両校の児童を一緒にして六学級編成で進められた。
終戦後、更に食糧事情が悪化、殆ど食事らしい食事がとれずに来る児童、元気に遊びまわることも少なく、体育なども空腹になるような強い運動は一切さけ、見学も教師の方からすすめる程だった。(『港区史編集資料』)
このほか、職員が兵役から復員しないため、人手不足に悩む学校などあり、混乱した社会情勢の中で、戦後の学校教育は出発したのである。
関連資料:【文書】教職員 復員教官の報告
関連資料:【学校教育関連施設】
関連資料:【くらしと教育編】第5章第3節 (1)学校の罹災(りさい)状況