戦争も終わり、疎開していた児童も復帰し授業が再開されたが、区内の各国民学校は、それぞれに問題を抱えての出発となった。被災校のなかでも三河台、東町、飯倉(いいぐら)の3校は昭和21年(1946)3月31日を最後に廃校となった。のち、東町、飯倉は再開されたが、三河台だけは廃校のまま今日に至っている。
3校の廃止が決定されたいきさつは明らかではない。当時の混乱した世相、財政難を考えると、できるだけ学校の統廃合を進め、財政負担の軽減を図る方針であったように思える。廃校のいきさつについて飯倉小学校の記念誌には次のような文がある。
……当時、三河台と、東町と飯倉が焼けて、廃校の問題で区長に呼ばれて、廃校にするかどうかで、質問されたのですが、わたしは、学校がないのだから廃校にすべきだと主張した。三河台は廃校に反対したが、結局だめだった。(「いいくらの思い出」・旧職員座談会)
3校はいずれも当時の麻布区の学校で、廃校は他の赤坂・芝区では実施していない。
昭和21年4月より、三河台国民学校の児童は麻布国民学校へ、東町国民学校の児童は本村国民学校へ、飯倉国民学校の児童は南山、麻布国民学校へそれぞれ編入された。
編入された先の学校は、すでに間借りしていた先のいわば通いなれた学校であった。しかし、廃校、他校への編入という大きな変化は子どもたちにいろいろな思いを抱かせたことだろう。
学校のやけあとに住宅がたちはじめているのを見たとき、ああ母校はなくなったんだなと思った。
やりきれなくて悲しくなった。私をはじめ、多くの子どもたちの遊んだ校庭も、もう校庭でなくなった。めちゃくちゃじやないか。ここで学んだ何千人の子どもたちの思い出もなくなってしまったんだ。だだっ子のように怒りたくなった。そしてはじめて、廃校のあわれさやくやしさがこみあげてきた。(東町小学校『目で見る六十年』卒業生)
三河台小学校よサヨウナラ。もう我々が育った母校は明日より消えてなくなってしまうのだ。卒業した後で、ある日、突然何かの気持で小学校に遊びに行きたくなったら、どこへ行けばよいのであろうか。
こんな感情をあの時はっきりと考えたかどうか、目をつぶり、深く考えても、なにしろ正確には何もかも思い出せないのです。二九年前のことですから。ただ、さびしかった気持ち、悲しかった気持ちが非常に強く心に残ったことだけは今もはっきりと覚えています。(三河台小学校〔国民学校〕最後の卒業式「廃校式の思い出」昭和20年度卒業生)
関連資料:【学校教育関連施設】
関連資料:【くらしと教育編】第5章第3節 (1)学校の罹災(りさい)状況