焼跡と闇市(やみいち)

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 たび重なる空襲と建物疎開で、区民の多くは住居を失い区外に転居する者も多かった。区内に残った者は、焼跡の防空壕(ぼうくうごう)や焼け残りのトタンでのバラック建てで、風雨をしのぐ生活を余儀なくされた。焼野原の中に、ポツリポツリとバラックが見える状態であった。一方、国電駅周辺には、闇市がたち、物資と人があふれていた。区内では、新橋駅周辺が特に有名で、食料難、物資不足にあえぐ人々は、闇市にむらがった。この中には、闇市をねぐらにしている浮浪者や浮浪児も多く、一日中けん騒をきわめた[図7]。

[図7] 新橋闇市(港区立図書館所蔵)

 新橋駅近くにあった桜田小学校95周年記念誌『さくらだ』に、当時の様子について次のような記述がある。
 
  集団疎開地の残務整理を終え、主力より一ケ月遅れて新橋に立った私達が驚いたのは有名な闇市の繁栄であった。いろいろな物資が闇市に集まり、都内の多くの人々がそれを買うために闇市にむらがっていた。けんかは日常茶飯時であり、闇市にあつまった人々の糞便で、校舎と塀の間は足のふみ場もなかった。戦前から入っていた食糧公団が依然として現在の校長室の隣を使用していた。公園のあづまやは浮浪者で一ぱいであり、血便を流しながら校庭の水道へ水をのみにくる者もいた。あずまやでは、むしろと、ぼうきれと、たき火で暖をとっており、そこにはぞっとするようなしらみが群をなして歩いていた。警察で追ってもすぐにもどってくるような状態で手のつけようもなく、子ども達には、絶対に近よらせないようにしていた。(略)(「桜田の戦前から戦後」)