当時の登下校の様子、学校間の協力の様子

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 終戦直後の学校の苦労については、すでに見たとおりである。罹災(りさい)校は施設、設備は何もなく、また受け入れ校もかろうじて焼け残った学校がほとんどで、乏しい施設、設備を分かち合っての授業再開であった[図8][図9]。

[図8] 焼失した校舎〔芝浦国民学校〕


[図9] 罹災校と受け入れ校

 罹災校の児童たちも、遠慮がちで肩身のせまい思いをしたことや、学校へ行くのをいやがる児童もいたことなど各校の記念誌などにうかがえる。しかし受け入れ校の中には罹災校の児童も受け入れ校の児童も一緒にして学級編制をした学校(氷川国民学校)、罹災校を受け入れるにあたって、歓迎式を行った学校(青山国民学校)などがあり、学区域をはなれ遠くまで通学して来る児童のために努力をしていたようである。
 後に、飯倉(いいぐら)、東町、三河台校は昭和21年(1946)3月に廃校となり、児童は同居先学校に吸収された。
 
関連資料:【学校教育関連施設】