戦争は空襲によって家を焼かれ、父母を失った戦災孤児、外地で父母を失い引き揚げてきた引揚孤児を多数生み出した。孤児たちはそれぞれ施設に収容されたのであるが、そこでの生活を嫌がり、逃げ出して国鉄駅周辺や盛り場などで生活する者が増え大きな社会問題となった。港区内でも芝浦の倉庫付近を中心につねに80余名がたむろしていたといわれている(『新修港区史』)。関係当局はしばしば一斉収容を行い、浮浪児や浮浪者の更生に努めた。
芝支所民生課社会係では管内愛宕、三田、高輪、水上の四警察署の協力を得て一〇月一六日より三一日に至る間新橋駅田町駅品川駅芝浦附近を中心として浮浪者の狩込を行った結果一三歳より三八歳迄の浮浪者男三〇名女一〇名を収容麴町京橋各保護所及び養護院に送った。(『港区政ニュース』NO.3)
東水園はより効果的な保護救済施設として設けられた。
戦災時に対する保護救済は現在主として保護所、養育院等に収容しているが放浪癖に汚染せられたる児童達は規律ある生活を窮屈に思ひ放縦(じょう)なる世界にあこがれて脱走する者相つぎ、都内の各所に屯(たむろ)して犯罪を助長する者尠からず由々した社会問題を惹起(じゃっき)しつつある此の儘(まま)に放置せば彼等戦災孤児の更生は永久に絶望の羽目に落入り、かくては新日本建設の礎石たる一般青少年に与へる影響は決して軽少ではないので、当区に於ては第一回の試みとして水上署と共同、水上署見張所(第五台場)の既存施設を利用し此処に彼等を収容し、これが生活上並精神的更生を計った結果予想外の好成績を得たので、更に多数の孤児を収容し保護救済の万全を期する為施設を拡張するの必要を痛感し、今般第一台場旧河岸兵舎を最適と認め使用する運びになったのである。(『港区政ニュース』NO.16)
関連資料:【文書】教育行政 戦災孤児の保護