焼失校の再建

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 戦災のために焼失した校舎を復興させ、2部授業を解消することは、昭和22年(1947)までの芝区、麻布区、赤坂区、続く22年以降3区を合併した港区の大きな仕事であった。罹災(りさい)校の父母は区に対して、陳情をするばかりでなく、校舎再建の募金運動や焼跡整理の奉仕活動に協力を惜しまなかった。区も校舎再建に最大の努力をした。その結果昭和22年8月、芝浦小学校に復興第1号校舎が誕生した(木造平家建砂付ルーフィング屋根、教室7、職員室、用務員室、昇降口、便所等)[図1]。
 しかし、この校舎も戦後の物資不足を反映していたみが早く、同校の記念誌によると、雨が降ると傘をさして授業、台風が来ると校長と教頭が窓枠を釘で打ちつけて飛ばされないようにする。いすは4人がけで、4人が一緒に座るとしなってしまうという状況だった。また、復興したのは7教室だけで2部授業の解消には至らず、運動場のすみでの青空教室、隣の交通局敷地の廃棄されたバスを使っての授業など苦労が続いた。同校の2部授業が解消されるのは昭和25年6月2期工事完成の後である。
 その後、昭和22年12月、23年3月、御田(みた)小学校6教室、昭和23年3月、神応(しんのう)小学校6教室と続々再建されていった[注釈1]が、いずれも当時の財政難、物資不足を反映して教室が学級数に足りず、その後の増築によって区内小学校の2部授業が解消したのは昭和26年度になってからであった。

[図1] 復興した芝浦小学校の校舎(『記念誌』)

関連資料:【文書】教育行政 <参考>区立学校施設建設概況(戦後初期)
関連資料:【図表および統計資料】教育行政 区立小学校増改築等の状況
関連資料:【学校教育関連施設】
関連資料:【くらしと教育編】第5章第1節 (2)大正~昭和戦後初期
関連資料:【くらしと教育編】第5章第3節 (2)6・3制と学校建築