戦後間もなく始まった区画整理の時に、既に飯倉は廃校になっていて、敷地が取れない。区画整理に依って、幅広い道路を予定していたので、周囲を大通りでかこまれた中に住む人たちに学校がない。大通りを越えて南山、麻布に通わなければならない。朝子供を学校に送り出してから、いつ事故のしらせを受けるかわからないのでは、親はやりきれたものではない。どうしてもこの際小学校の敷地をつくって置こうというのが、区画整理委員、のちの審議会会長の中村雄一さんの心配であった。中村さんから相談を受けた私は、それではその運動を起そうと引き受けたのが、飯倉のこと、そして教育のことに半生を生きてきた初めです。 (『飯倉小学校記念誌』)
その後、用地の取得に苦労を重ね、遂にブリヂストン会社の石橋正二郎社長より、その所有地(飯倉4丁目22番地)の寄贈を受け、飯倉小学校が復興するめどがついた。
昭和27年9月整地工事、昭和28年4月10日落成式、木造瓦葺(かわらぶ)き2階建1棟、6教室ほか7室の校舎が完成し、3年生以下236名、各学年2学級編成の飯倉小学校が、8年ぶりに復興した[図2]。
[図2] 復校した飯倉小学校(『記念誌』)
一方、東町小学校の地元住民からも学校復興の要望が出てきた。昭和29年12月、東町小建設後援会、東町小建設協力会が結成され、組織だった活動をするようになった。この結果、昭和30年4月1日本村小学校で開校、同年7月5日第1期工事完成(6教室、そのほか7室)、本村小学校に併設されていた3年以下6学級が新校舎に移転した。翌31年2月第2期工事が完成(6教室、そのほか2室)ここで南山小学校に残っていた児童も移転し、独立校舎を持った東町小学校が復興した[図3]。
東町小学校四月から九年ぶりに復校
戦災により廃校となっていた麻布の東町小学校が、この四月から復活、開校することになりました。廃校以来、同校通学区域の子供たちは、本村、南山の両校に分れて収容されていましたが、年々児童数はふえる一方、本村も南山もこの上教室を増設する余地はなく、また地もと側の要望もあって、東町小学校復活が実現することになったものです。とりあえずこの四月一日から、南山小学校内に併設して開校し、一方東町三〇番地の旧同校敷地には、近く新校舎の建設に着手夏ごろまでには名実とも復校できることになりましょう。(『港区政ニュース』NO.133昭和30年2月21日)
[図3] 復校した東町小学校(『記念誌』)
関連資料:【学校教育関連施設】
関連資料:【くらしと教育編】第1章第3節 (2)飯倉(いいぐら)小学校の再建