港南小学校新設[図4]

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 昭和30年代になると、街の復興と共に開発も進められるようになる。埋め立て造成された芝浦地区は、開発の余地が残されている土地で、昭和30年代後半には、芝浦地区のなかでも港南地域が開発されるようになった。都営団地が建てられたのを始めとして(昭和37年、38年)、公団アパート、水道局アパート、国鉄寮、税関アパートなどの集合住宅が建設された。
 それまで、港南地域の児童は、芝浦小学校に通学していたが、学校まで距離があり、ほとんどの児童が国電や都バスを利用するという、区内では他校に見られない現象がおきていた。またその数も年ごとに増え、教職員も通学証明書の発行が一仕事となっていた。
 昭和38年、都営団地が完成するのと歩調をそろえるように学校の建設工事が完成。港南小学校の前身である芝浦小学校分校が開設された。分校となったのは、当時の規定で単学級では独立校として認められなかったための処置で、翌昭和39年には港区立港南小学校として独立した。
 港南地区は港区の新開地であり、そこに設立された学校は、すべてを一から始めなければならなかった。建物は区のモデルスクールとして立派なものであったが、校庭は未整地であり、草木もなかった。そして職員の献身的な努力により環境が整備されていった。
 昭和38年4月 6学級 児童数185名(芝浦小学校分校)
 昭和39年4月 7学級 児童数223名(港南小学校として独立)
 その後も児童数は増加を続けた。

[図4] 新設された港南小学校・中学校

関連資料:【学校教育関連施設】