一方、戦後の復興と共に増加の一途をたどっていた港区の人口は、昭和29年より横ばい状態となり、特に、愛宕地区の北部にあっては居住者の減少が顕著であった。街がビジネス街に変化し、昼間人口の増加と夜間人口の減少が見られるようになった。これに伴いこの地域の桜田、西桜、南桜小学校では急激に児童数が減少していった。
南桜小学校では、昭和30年の児童数669名をピークに昭和39年には児童数が250名になると予想された。
また、西桜小学校は昭和26年391名の児童数が、13年後の昭和39年では93名まで減少してきた(いずれも両校の記念誌より)。
当時都の教員配置基準によると、7学級以下の学校には専科(音楽、図工、体育)教員は配置されないことになっており、少人数の職員にかかる負担は過重なものとなっていた。
区教育委員会では、これからも予想される児童の減少と教育内容の充実のために、学校統廃合調査委員会を昭和37年9月より発足させ、愛宕新橋地区の小学校(桜田、西桜、南桜)の統廃合について諮問した[注釈2]。調査委員会はこれに答えるべく調査研究を重ね、昭和38年1月に第1次試案を発表したが、桜田小学校が統廃合反対の立場をとった。しかし、同委員会は同年4月、最終案として、「桜田、南桜、西桜の3小学校は、原則として統合、新たに同通学区域内に、新設校を設置することがのぞましい」との答申書を提出。留意事項として、桜田小学校については、地域の特性もあり、種々の事情もあるので、実施に際し、特別な考慮を払うことが望ましいことがあげられている[注釈3]。
この答申に基づき、南桜、西桜両小学校の統合による桜小学校が、南桜小学校校舎を増改築して昭和39年4月より発足した[注釈4]。
関連資料:【文書】教育行政 港区立学校統廃合調査委員会の設置
関連資料:【文書】教育行政 港区立学校統廃合調査委員会の答申
関連資料:【文書】教育行政 桜田小学校廃校反対の決議書
関連資料:【文書】教育行政 西桜・南桜両小学校合同対策委員会の要望
関連資料:【文書】教育行政 南桜・西桜小学校の廃止と桜小学校の設置
関連資料:【学校教育関連施設】