ニコニコ学園の由来については、学園内に建立されている由来碑に次のように記されている。
この学園は、もと麻布区教育会が、昭和一五年故牧野元次郎翁の寄付により、紀元二六〇〇年を記念して、山紫水明のこの高原に敷地二六〇〇坪を求め、区内児童のために建坪三九〇坪の園舎を建設したもので、昭和二二年三区統合による港区創立後は、引続き区立小中学校生徒の校外教育施設として利用されたが、寄付者の意志と学園設立の趣旨に鑑(かんが)み、昭和三一年三月麻布教育会より本区に寄付されたものである。
爾(じ)来、園舎を整備し修築を加え、区内児童生徒に親しまれ、教育上に多大の成果を挙げている。
ここに学園の由来を記し、永く記念とする。
昭和三二年七月
港区長 中西清太郎
戦後学校独自での学園の利用はあったようであるが、夏季学園としての利用は昭和24年からのようである。区と麻布教育会共催、7月22日より開設、参加は小学校6校のみであった。以後毎年、夏季林間学園として使われ、昭和30年度よりは夏季学園としてばかりではなく、校外学習の施設として4月より11月まで使われるようになった。昭和31年度には増築し120名の定員が一躍50パーセント増の180名となった。一方、中学校用には昭和36年度より軽井沢に民家を借りての施設が開設され、以後、箱根ニコニコ高原学園は小学校専用の施設となった。
当時のニコニコ学園の建物は、大食堂、温泉浴場などの設備のある木造2階建170坪余りの日本風家屋が、昭和42年度になって改築工事をし、2階建鉄筋コンクリート造り、延べ1985平方メートル(約600坪)の現在の建物となった。さらに、児童宿泊室10室、常時250名の給食が可能という完備された施設となった(完成昭和42年6月27日)。
[図13] 箱根ニコニコ高原学園(『港区政ニュース』昭和42年度)
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