遊び場の減少と社会施設の整備

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 戦災復興のはしりとして、新橋駅付近の建物疎開の跡地に、ヤミ市場、青空マーケットが出現し、多勢の人が、食料品や日用品を求めて集った。児童にとっての遊び場は、焼け跡地とか公園、校庭などであったが、公園などは戦災で家を失った人々の宿泊所やたまり場になったりして、十分な安全性や自由性を確保することはむずかしかった。昭和25年(1950)ころより、露店撤廃の行政指導がなされ、町並はだんだん整備されていった。戦災校も次々と校舎が修復、改築され児童の学校教育の場は改善されていった。しかし家に帰れば商工業地帯であるとか、オリンピックにむけての道路拡張の工事などで適当な遊び場を確保することは大変困難であった。
 区当局は、戦争中、樹木が焼失し、施設が破壊され、被災者の避難所となっていた公園を区民のオアシスとするため整備を急いだ。区画整理により、一の橋・飯倉・網代・狸穴公園の設計のほか、外青山・亀塚公園を造成整備した。その上区民や児童のよい安全な遊び場として、区が設けた「児童遊園」は昭和24年度には、10カ所開園、34年度には、27カ所になった。
 昭和34年12月現在の表によると次のようになる。
 
 公園 明治年代開園(芝公園) 大正年代開園(旧芝離宮、乃木公園)
    昭和三~一三年(台場公園他八公園)
    昭和二五~三二年(青山公園他七公園) 合計 二〇園
 児童遊園 昭和二五~三三年(金杉橋児童遊園他二七園)
 
 児童の校外での生活を、地域住民の協力により、支える基盤となった。