[図32] 戦災校舎とその復興
復興の最も早かった芝浦小学校における地域、家庭の協力ぶりを、沿革誌より抜粋すると
昭和二〇年五月二六日 米軍の大空襲により、校舎は全焼した。
昭和二二年八月一三日 昭和二一年九月 都より、校舎復興予算として六教室分(一八〇坪)五四万円の令達があったが、当時の物価及児童数から考え、最小二八六坪、九〇万円を必要とした。そこで、芝浦国民学校復興資金を募ることになり一〇月より活動を始め、関係各位の努力により、四五万七一三六円三三銭の御寄附を得、昭和二二年二月一日に起工、八月一三日に復興校舎の落成式を挙行し、八月二六日に間借りの南海小学校より児童職員がひきあげ、九月一日より新築校舎に於て、二部授業を開始した(二四八・五坪)。
同校第4回卒業生の思い出の文章の中に当時の様子がよく描かれてある。
私は芝浦小学校の六年生に編入学いたしました。焼失してしまった学校は南海小学校の一部を間借りして授業をしておりました。六年生は二〇数名、一組でした。ざら紙に印刷された教科書はところどころ墨で伏字となっており、味噌パンという黒いコッペパンの給食が楽しみで休みませんでした。居候の学校から、運動場にテントを張った青空教室へ、そして木造校舎が出来、プールが出来て、樹木が植わり、魚が住み、花が咲いて明るい健康な笑いが満ちあふれております。(『芝浦小学校記念誌』)
初期は地元の人々の協力で寄附金が集まり次々と校舎が増築されたが、その後体育館・プールなど、次第に区から費用が出るようになった。地域が広いのでPTAの校外指導部が活躍し、夏休みは盛んに子ども会を開いた。またPTAの理髪奉仕、廃品回収などがあり、さらにジャングルジム、チーターラーダーなどを設置することを得、これらは地域や父兄の方の協力の結晶であると記録されている。これは一例であるが、他の被災校についても、数々の協力があった。
飯倉(いいぐら)国民学校、東町国民学校、三河台国民学校の麻布地区の3校は、戦災焼失校として昭和21年3月31日廃校の悲運に際会した。各校とも近くの小学校に分散収容されたが、地元の人々、父兄の間に、復校の気運が充実し、飯倉小学校建築促進会、東町小学校建設協力会の働きが活発となった。
飯倉小学校建設促進会の場合は昭和34年(1959)4月24日、飯倉小学校建設促進会結成大会が、森元町「松の湯」で行われ、地元の一致団結した組織はみごとな体制であり、役所方面への陳情も相当の効果があった[図33]。
[図33] 復校した飯倉小学校(『記念誌』)
東町小学校においては、
昭和二九年一二月一二日、東町小学校建設後援会を結成、二七日、東町小学校建設協力会設立、同三〇年三月一〇日 第一期工業起工 七月七日 新校舎へ移転 七月二三日 後援会より備品充実費として、四四万一一九〇円を寄贈される。
と記されている(『東町小学校記念誌』)[図34][図35]。
[図34] 東町小学校復興校舎建築(『記念誌』)
[図35] 東町小学校復興に関する歎願書
関連資料:【学校教育関連施設】