開設時の協力

159 ~ 161 / 444ページ
 新制中学校の独立校舎建設は、区の一大努力目標であると同時に保護者の一大関心事でもあった。このため創立したばかりのPTAや後援会の活動は校地取得、校舎建設のための運動に集中され陳情に回ったりして独立校舎建設のために奔走した。
 これは焼失校舎を持つ小学校と同じ姿であったが、中学校の場合まったくの無からの出発であり、まず校地取得からの運動であった。
 それぞれの学校のPTAには、独立校舎建設のための苦労話があった。
 
 ……校地をきめるのに、小寺さんや野口会長や私たちが相談して、校地探しをやった。
  いくつかの候補地の中で安立電気の所や天現寺の車庫のところ、いまの高松中の所が候補になったが、一番最後に、ここが阿部さんの土地で箱根土地が持っていた。値段が高く折り合わなかったが、小寺さんらが奔走している中に、ここで事故がありこの土地にケチがついたことから箱根土地では土地を手ばなしてもよいという話になって急にこちらに決定したのです。(『朝日中学校二〇周年記念誌』)
 
 運動は、区、都のみならず国の段階へも行われた。青山中学校は元陸軍大学あとの敷地、建物を校地、校舎として取得したが、同建物は終戦後、駐留軍宿舎として使用されていたため、なかなか接収が解除されず、区、教育委員会をはじめ、同校のPTAも関係各方面へ陳情を行い、衆議院外務委員会でも問題として取上げた。同校は昭和30年1月、新校舎に移ることになったが、それまで8年間の間借り生活を続け国、都、区への8年間にわたる陳情歎願の末の新校舎取得であった。
 区の段階で建物、校地を取得した例としては、芝浜中学校がある。同校でも用地を物色して増上寺境内、高浜町附近に候補地をさがしていたが、昭和30年3月初旬、芝田町5―16の浅野総一郎氏邸敷地が購入できることになり、ここに芝浜中学校新校舎が建設されることになった[図7]。

[図7] 芝浜中学校の玄関(『芝浜中学校卒業アルバム』)

 四月でした。すでに都でも当時としては一学校の一施設に前例のない五〇〇〇万円余の予算もできて、契約調印の前に手付金として七〇万円の支払いに立ち会えとのこと。月給四万円、私には見たこともない大金で、どうなることかと不安に思っておりましたが、当日朝、PTA会長高波二郎氏と浅野氏が校長室に落ち合われあっさり受け渡しをして終わりです。今ならば一〇〇〇万円にもなろう大金を平然と個人で立て替えて下さる会長の腹の大きさに驚き敬服しました。(略)(「児童期芝浜中に赴任して」『芝浜中学校二〇周年記念誌』)
 
関連資料:【学校教育関連施設】