養護学園の発足

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 港区の身体虚弱児の教育は、昭和5年(1930)、本村尋常(じんじょう)小学校に設けられた養護学級1学級から始まった。昭和6年に続いて神応(しんのう)尋常小学校にも1学級設置の運びとなり、虚弱児童の体位向上を図り、身体養護の教育が行われた。また、児童の体質の向上を図る目的で、夏季休業中に臨海施設を設け、希望者を対象とした活動も実施されていた。箱根ニコニコ高原学園(林間)、沼津臨海学園(臨海)等がある。
 戦後、身体虚弱児童の年間を通じての学校教育の必要性が認識されるようになり、昭和26年6月から、沼津市我入道海岸に養護学園が開設された[注釈5]。昭和11年、赤坂区が夏季臨海学園として設立した施設を港区が引き継ぎ、敷地面積583坪(1924平方メートル)、建物延坪290坪(957平方メートル)、校庭運動場290坪(957平方メートル)、児童室6室(1室21畳)その他を利用したものである。虚弱児童(小学校3年以上)の健康増進をはかりながら、小学校課程を履修させるというものであった。
 所在地は、静岡県沼津市我入道蔓陀ケ原509、松林に囲まれ、駿河湾に臨む沼津市の風致地区に指定された恵まれた自然環境の中にある。
 募集人員は50名でこの人数は最初より変わらない。男子24名、女子12名計36名の児童が入園した。職員は、園長、教諭2名、養護教諭1名、寮母2名、作業員3名の組織で発足した。その後、教職員は増員され、昭和40年には教諭4名となった。
 開業当時の沼津養護学園について『港区政ニュース』(昭和26年6月1日)には次のような記事がある。
 
  身体が弱いために大切な勉強も思うように出来ない子供、もっと丈夫にならなければ将来の案じられる子供、こうした子供達は父兄にとって一番の心痛事であるとともに、日本再建という大きな課題を担っている次代の国民層にとってもゆるがせに出来ない損失である。このような身体の弱い子供達を都会の塵埃や騒音から遠ざけ、静かな田園の自然環境の中で勉強させることが出来たら、これは単に教育関係者だけではなく区民全般の希望するところであった。区ではこれまでも毎年夏の休業を利用して箱根と沼津に夏季学園を開き、区内小中学校児童を収容してその目的に添うようにつとめて来たが今回沼津の臨海学園を港区立沼津学園として常時開設し、この身体虚弱児の学習について全面的努力することになった。(略)
  今年の一学期は開設準備のため遅れて六月一日から七月一五日まで、既に区内小学校から該当児童男子二四名女子一二名が、去る一日元気に入園学習と訓練の日々を送っている。(略)
 
関連資料:【文書】特別支援教育 虚弱児童養護教育
関連資料:【文書】特別支援教育 沼津養護学園の生活
関連資料:【学校教育関連施設】