終戦直後の教員の状況

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 終戦直後の区内の各学校は、学童疎開が実施されたあと、戦災者の避難所、他の団体の校内居住、食糧公団の貯蔵所等に転用され、留守を預る教職員は、残留児童の教育に付近の寺院を借りて寺子屋式授業を行っていたところもある。昭和20年(1945)9月より授業再開の通達があっても直に再開はできなかった。疎開地よりの復帰が決定した10月下旬より11月にかけて、疎開児童の到着までに、各校では、少ない教員で学校の内外を整備した。しかし、食糧不足、生活苦、住居の無いこと等が重なり、教職に魅力や自信を失い、職場を去る者も多くなっていった。
 また、戦時中に、応召者の代りに、中等学校卒業者の助教員(免許状をもたない)採用が多く行われて、特に高等女学校卒業者が多かったが、この助教の教員に対する現職教育にも意を用いた[注釈1]。昭和25年には、助教員の数が全体の4分の1に達しその大部分70パーセントは女子であったといわれる。
 教員の需給の状況については次のようにまとめることができよう。
 
 (1) 戦争末期は有資格の男子教員が軍人として召集され不足の状態[注釈2]。
 (2) 終戦直後はますます不足の様子が激化し、助教員等無資格教員の増加が続く。
 (3) 昭和22年4月、六・三制の新学制実施により、教員の需要が急激に増大する。
 (4) 新制中学校の発足に際しては、青年学校の教員の大多数、小学校教員の中堅層及び旧制中等学校の教員等が中学校教員となった。
 敗戦後、軍国主義・超国家主義の排斥に伴って、教職員の資格審査がなされた。昭和21年5月「教職員の適格審査をする委員会に関する規程」が作られ、教職関係者の就職・退職はすべて適格審査を経て行われることになった(第1節参照)[注釈3]。
 
関連資料:【文書】教職員 外地引揚げ教職員の採用