職員の団体

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 教職員組合は、教職員が構成する職員団体で、主に教職員の労働条件の維持改善を図るという本来の目的達成のための運動を活発に行った[注釈12]。
 港区教職員組合結成のころの様子を、沿革誌や学校日誌の記事の中から拾ってみよう。
 
 二〇年 一二月一日 全日本教職員組合結成式一橋教育会館
 二一年  二月一日 降雪、教員組合ニ就キ、都支部委員ヲ招キ性格組織ニ就キ質問協議ス 一時ヨリ四時
 二一年  三月八日  午後 組合結成 於音楽室(赤坂区)
      四月二四日 教職員組合総会、二時より四時
 (『青山・青山高等国民学校学校日誌』)
 
 なお、23年7月に、東京都教職員組合が結成された[注釈13]。
 
    都教組港支部のあらまし
  港区、人口二十二万余。小学校二十七校、中学校十一校、そして幼稚園が毎年二~三園ずつ増して今年で二十園。そこに働らく教職員は小・中・幼合わせて八百四十名。それに学校に勤務する雇傭員、調理士などの四百余名が、それぞれの職能に応じて、港の教育を支える力となっています。
  港支部は、校長・教頭等の管理職を除いた教職員を対象として、その大部分の先生がたで組織されています。
  都心の港区は、例外にもれず太平洋戦争で焦土化したのですが、昭和二十一年には教育の民主化、餓死突破資金を支給せよ、男女の差別、その他の賃金差別を撤廃せよ!などをスローガンに、当時の芝、麻布、赤坂各区ごとに教員組合が結成されたのですが、昭和二十二年、港区として以上の三区が統合されると、都教組港支部として大合同を行っています。
  その後は都教組の一支部として、教委任命制、勤評、学力テストの反対闘争。あるいは安保闘争と、都教組全体と歩みを一つにしながらも、港区独自の福利・厚生事業の要求も強め、教職員住宅(港南荘)の建設、あるいは厚生会、文化会等の設立、教職員の働き易い環境設定をスローガンとした教育予算闘争、現物支給など数多くの成果は、文字通り全都随一といってよいでしょう。(『港支部たたかいの二十年』昭和44年)
 
関連資料:【文書】教職員 東京都芝区教員組合規約
関連資料:【文書】教職員 東京都麻布区業務協議会規程
関連資料:【文書】教職員 東京都教職員組合港支部綱領