学校教育施設の充実[図8]

314 ~ 319 / 444ページ
 戦災によって全焼や被害を受けた9国民学校(芝・芝浦・御田(みた)・神応(しんのう)・飯倉(いいぐら)・東町・三河台・赤坂・青南)をはじめ、戦火から免れた学校も防空などの目的で軍隊が校舎の一部を使用したりしていたので、修理の必要に迫られていた。また、戦後のベビーブームによる人口増、住宅復興による転入学児童の増加、更に、六・三制の義務教育制度による新制中学校の設置は、教室不足と併せて深刻な問題であった。
 地域住民の教育に寄せる熱意と期待は強く、区行政においては常に教育を重点施策として力を入れてきた。区行政にとって、昭和21年から30年代前半までの学校建築の課題は、①新制中学校発足による独立校舎の新築 ②児童生徒数の増加による普通教室の増築 ③戦災校舎の復旧 ④木造校舎の鉄筋化であった。その状況を年次別に見ると、[図9]のとおりである[注釈16]。

[図8] 校舎建替工事(『港区勢要覧』)


[図9] 学校建築一覧表・昭和21年以降

 また、木造建築から鉄筋化建築への歩みの姿を年代の推移にあわせて見てみよう[図10]。
 一方、昭和26年に静岡県沼津市我入道海岸の松林の中に、区立沼津養護学園が設置された。小学校3年から6年までの虚弱児童を対象とした養護施設であり、夏季は臨海学園として活用された。
 更に、昭和31年には、神奈川県足柄下郡箱根町仙石原に麻布教育会から土地・建物の寄付を受け、小学校児童対象の夏季施設として区立箱根ニコニコ高原学園が開設された。また、木造建築であったため昭和42年に鉄筋コンクリート2階建てに改築された[図11]。
 また、中学校生徒を対象とした校外施設として、昭和41年に長野県小諸市の北、標高913メートルのカラマツ林の中に地上3階鉄骨コンクリートの区立小諸高原学園が開設された[図12]。
 箱根、小諸の両高原学園は夏季施設として利用されるばかりでなく、昭和42年度からは、春・秋を通しての移動教室用の施設として利用され、学校教育活動の充実が図られてきた。昭和40年には、区全体予算の実に38・4パーセントに当たる11億6700万円が計上されている。

[図10] 年次別校舎建設状況


[図11] 箱根ニコニコ高原学園(『港区勢要覧』)


[図12] 小諸高原学園(『港区勢要覧』)

 昭和22年に港区が誕生して以来の10年間は、特に学校建築及び施設の拡充に力を注いでいる。
 また、学校教育施設の課題は、昭和34年度以降においては理科室、音楽室、技術・家庭科室などの特別教室の拡充や全校にプールを設置することにあった。この課題も昭和42年度には、ほぼ達成するに至った。
 
関連資料:【文書】教育行政 <参考>区立学校施設建設概況(戦後初期)
関連資料:【文書】特別支援教育 虚弱児童養護教育
関連資料:【図表および統計資料】教育行政 園舎・校舎の増改築等の状況 区立幼稚園増改築等の状況
関連資料:【図表および統計資料】教育行政 園舎・校舎の増改築等の状況 区立小学校増改築等の状況
関連資料:【図表および統計資料】教育行政 園舎・校舎の増改築等の状況 区立中学校増改築等の状況
関連資料:【学校教育関連施設】