1回の給食基準量は、小麦粉100グラムに砂糖・バターなどを加えて142グラム、370キロカロリーのコッペパン1個、これにミルク副食物等を添えて600キロカロリーとし、蛋白質をはじめ1食に必要な栄養分が含まれていることになっている。原則としてはパン給食となっていたが、教育長の認可により麵類の給食が行われることもあった。
本区における給食用パン工場の指定に当たっては、都内5パン組合の代表者と連絡のうえ、都経済局指定のA及びB級の工場の中から製造量・衛生施設等に重点をおいて詮衡(せんこう)の上、7工場が承認されるところとなった。また、運搬容器等についても学校給食専用として新しく作製されるなど衛生設備には万全を期し、あらゆる点において「完全給食」となるよう努力が払われた。なお、昭和25年当時の児童1人1食当たり7円、1カ月の給食費として1人150円の実費を徴集した。
昭和26年、講和条約の調印に伴い、占領地域救済資金(GARIOA)による小麦の贈与が打ち切られることになったが、国庫半額、父母が半額負担することで、引き続いて学校給食が行われた。しかし、父母の給食費負担増となるところから、給食日の回数によって三つに分け、週5日をA型、週4回をB型、週3回をC型として、学校ごとの選択制とした。その結果、週5日制11校、週4日制17校となった。
一方、中学校における学校給食は、昭和39年からミルク給食として開始された。
昭和40年5月から芝浜中学校で完全給食が実施され、つづいて、41年に港南中学校・青山中学校、42年に港中学校・三河台中学校が実施している。
[図13] 学校給食(『今日の港区』昭和41年度)
関連資料:【文書】小学校教育 <参考>学校給食実施の経過
関連資料:【学校教育関連施設】