戦後の社会教育は、戦後の教育改革によって戦前の団体中心の教化的性格を改め、国民の自発的な活動を基礎に振興されることになった。そのため、戦前の教化団体の解散が強力にすすめられるとともに、法律的には、新憲法の発布に基づき、「教育基本法」、「社会教育法」、「図書館法」、「文化財保護法」、「スポーツ振興法」、「青年学級振興法」、「同和対策事業特別措置法」などが整備された。
戦後社会教育の出発について『新修港区史』では次のように述べている。
戦後の社会教育の改革と出発は、次の二つのことを契機としていた。
第一の契機は、戦前社会教育への反省と改革であった。戦前の社会教育は、よくいわれるように、官治的な社会教化事業としての性格をもち、青年を軍事力の予備軍として位置づけるなど軍国主義的で、国家総動員への精神教化を目標としていた。
終戦直後の文部省の「新日本建設の教育方針」は、平和主義と社会教育の振興をかかげつつも、「国体護持」と「国民道義の昂揚」を目標にかかげていた。
これにたいして昭和二一年三月の「第一次アメリカ教育使節団報告書」は、次のようにのべて社会教育の根本的転換を勧告した。
戦争という残忍な行為を盛んに行はしめた心理的な環境が、探求という探照燈と真理という修正剤との下に、さらし出されなくてはならぬ。……市民達の手に与えられた投票権は、その自由な行使を長い間さまたげられてゐた……自由の果実の分け前をもらふ特権は、公共の福祉のためにつくすべき義務を負ふものであるといふことを、彼らは学ぶ必要がある。
そして「校外教育の計画を進めて行かうといふ意志と勇気を持つものには、時間と資力が許すにつれて機会が積極的に提供されるべきだ」とし、自発的な活動を助長し、図書館・博物館の充実、自主的団体の育成、学校施設拡充の促進、新しい教育方法の採用などを勧告した。
文部省は、自発的に「公民館構想」をたて、「国民の教養を高めて道徳的知識的並びに政治的水準を引き上げ、また町村自治体に民主主義の実際的訓練を与えると共に、科学思想を普及して、平和産業を振興する礎を築く」(昭和二一・七・五 文部次官通牒)ことをめざした。
第二の契機は、戦後の荒廃した状況が、青少年のみならず成人に与えた好ましからざる影響であった。このなかから、豊かな文化活動と環境の整備・復興、社会教育の飛躍的な発展が望まれていた。
昭和二六年までに、本区ではこれにこたえて麻布・氷川両図書館、麻布・赤坂両運動場、芝公会堂を開設し、赤坂・麻布両公会堂着工の計画を立てた。
さらに、CIE(占領軍民間情報教育局)の援助で新しい教育方法と活動内容を準備し、新しい形の社会教育事業を展開した。それらは、レクリエーション運動、十六ミリナトコ映写機による啓蒙映画等の視聴覚教育、フォークダンス、指導者研究講習会、音楽会、展示会、視聴覚教育教具の貸出し、社会体育大会、文化教養講座の開設などであった。このように自主的な社会教育活動振興のために、意欲的に啓蒙と「環境の醸成」(社会教育法第三条)につとめた。
港区には、また多くの文化団体が生まれ、PTAとともに民間の側での社会教育活動、文化・体育活動も活発に展開され、区民の文化的環境を向上させた。
昭和二五年八月の文部省『日本における教育改革の進展』は、「戦後わが国の社会教育は目ざましい発達をとげ、名実ともに学校教育と並んで日本再建の原動力となりつつある」と述べた。