■ナトコ映画会

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 GHQのCIE(民間情報教育局)が主として日本の民主化をすすめる手段としたのが、ナトコ映写機による映画会の開催であった[注釈8]。全国の自治体へ映写機1270台、映画フイルム約3400本(375作品)を貸与し、社会教育における視聴覚教育活動を義務づけたことにより、全国各地で映画会がさかんに催された。
 本区においては、昭和24年に映写機1台の貸与を受け、同年より区内小中学校を主な会場として映画会を実施した。ちなみに同年度は4月から翌年3月まで7月を除いて毎月映画会が開催され、総計では100回を優に超えた。また昭和25年度では8月までに105回の映画会が実施されている。また、同年から映写機とフイルムの団体貸出しを始めているが、フイルムの題名として『この妻の願い』『原子力』『アメリカ点描』『町も学校』等があった。
 ところで、映画の上映については「ナトコ十六ミリ発声映写機操作免許」保持者がその操作にあたらなければならないことになり、東京都は「連合軍総司令部貸与のナトコ十六ミリ発声映写機操作免許に関する規則」(昭和24年6月2日付)を設け、映写技師の養成を始めた。
 本区においては、この事務を昭和35年に都から移管され、16ミリ発声映写機操作技術講習会を実施し、昭和43年度までの修了者は850名に達している。
 なお、昭和43年度からは、東京都で発行していた修了証の発行事務が区に移管された[図5]。

[図5] 映写講習会(『港区の社会教育』)