■青年学級

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 昭和30年代は青年学級が質・量ともに、もっとも充実した時代であった。その背景として、高学歴社会はいまだ出現しておらず、中卒青年の学習の場としての認識が広く区民の間に定着していたことや、地方出身勤労青年の増加に伴い、その余暇対策としても歓迎されていたことなどをあげることができる[注釈19]。
 昭和36年4月22日付の『区のお知らせ』によれば、開設以来、青年学級で学んだ勤労青年は2314名の多きに達したとのことであり、その人気の高さをうかがい知ることができる。
 その中で特筆すべきものとして、「店員学級」をあげることができる[注釈20]。
 これは同34年から開設されたものであるが、その間の事情を同年7月20日付の『港区政ニュース』から拾ってみると次のとおりである。
 
    八月から、お待ちかねの店員学級  東町小と三田図書館で
  最近、商店街の一斉休業が行われて、忙しい店員さんも一度は休めるようになりました。ところが親もとを離れている住み込みの店員さんたちは、店にいてはのんびりできず、外出しても映画やパチンコ、飲食ぐらいがせめてもの楽しみで、おけい古ごとや自分のためになる勉強をしたくても、その機会がないという実状でした。
  港区では、この休日を、店員さんが楽しく有意義にすごすことができるようにと、この八月から、港区店員学級を、開設することになりました。
    科目は
 教養科目―学級生の希望をとって内容を決定してゆくやり方
  例=言葉と態度、よい働き方と休み方 青年と生活設計、自由と責任、恋愛と結婚など
 和裁―初歩から指導
 華道―初歩から指導
    会場と日時は  毎月第三日曜日、午前九時半から正午まで  東町小学校
            毎月二〇日   同左           三田図書館
    その他クラブ活動として
   ㋑スポーツ(野球、テニス、卓球、バドミントン)
   ㋺趣味(文芸、読書、映画鑑賞、コーラスなど)
   ㋩レクリエーション(フォークダンス、ハイキングなど)
    を適当に実施する予定です。
     定員は、教養科目六〇名ずつ、和裁五〇ずつ、華道三〇名ずつとなっています。
 
 この学級は、翌35年には第2青年学級と改称したが、雇用主の理解を得るための手だてを講ずるとか、交通機関や映画館の学生割引の特典を付与するなどのことにより、当初から希望者が多かったと聞く。
 本区の青年学級は昭和41年に5学級に達した。そのタイプは三つに分けることができる。第1のタイプは平日の夜、週2日開放される第1青年学級、第2のタイプは、当初、店員を対象としたもので、毎月第1、第2日曜日に開設される第2~第4青年学級で、このタイプは都内でも珍しい。第3のタイプは、第2のタイプと同様であるが、特殊学級卒業生を対象とする第5青年学級である。
 青年教育の中心的な存在として、区内の勤労青少年に親しまれた青年学級であったが、学級生の減少に伴い、昭和56年をもって閉鎖された。
   港区青年学級の沿革
 昭和28年 11月 神明小学校に開設(夜間)
 昭和34年 4月 第2青年学級を三田図書館に開設(日曜日)
 昭和37年 2月 第3青年学級を三河台中学校に開設(日曜日)
 昭和38年 4月 第4青年学級を三光(さんこう)小学校に開設(日曜日)
 昭和39年 7月 第1、第2青年学級が区役所内青年館に移る
 昭和40年 4月 第3青年学級が城南中学校に移る
 昭和41年 12月 第5青年学級を高松中学校に開設(日曜日)
 昭和43年 4月 第1、第2青年学級が現在の青年館に移る
         第4青年学級が芝浜中学校に移る
 昭和44年 4月 第3青年学級が勤労青少年ホールへ移る
         第5青年学級が城南中学校へ移る
 昭和46年 4月 第3青年学級が城南中学校へ移る
         第4青年学級が青年館へ移る
 昭和47年 4月 第3青年学級が三河台中学校へ移る
 昭和49年    第3青年学級廃止
 昭和57年    青年学級を青年セミナーと改称、第5青年学級をいちょう学級と改称